59. 『お前に似ている花だと、私は思う』
先ほどまでは、慣れない浮遊に力を使わなければいけなかったため、完全に力を放出することができなかった。――しかし、九十九が体を拘束している今なら。浮遊に使っていた力を九十九に向かって放つことができる。しかも、有難いことに身体が密着しているのでやりやすい。
(――一瞬で、妖気を祓う!)
身体を傷つけずに妖気だけを祓うように制御した風で、綾子の中にある九十九の妖気を一気に追い出す。
「ちぃっ」と九十九は舌打ちをすると、彰吾の首から手を離した。
しがみついてくる彰吾の身体を離そうと綾子の腕に力をこめる。ぐきっと骨が折れるような音がしたが、彰吾はがっしりと綾子の身体に抱き着くと風の力を強めた。妖気が綾子の身体の外へと拡散されるのを感じる。
(このままでは、この身体の中から追い出されるな)
――その時、綾子の身体が九十九の意思に反して動いた。
(――彰吾くん、が来てくれた)
九十九の支配が薄れている。自分に縋りつく彰吾から伝わってくるじんわりとした温かさが綾子の意識を引き戻した。
綾子は腕の家紋を発動させた。
自分の身体全体に妖気を焼き払う炎を発生させる。
――風と炎。二つの力で、九十九は急速に祓われるのを感じた。
(惜しい、――惜しいが――完全に乗っ取るか――)
――今までは、綾子の身体を支配していただけで、完全に奪っていたわけではない。
「はる」と結婚した男――鵜原 百助として人間社会に混ざり生活していた時は、完全に百助の身体を乗っ取っていた。つまり――百助という存在を完全に殺し、その体を自分のものとしたのだ。
綾子の身体をそうするのは惜しかった。
九十九は綾子になりたいのではなく、綾子を妖として妻としたかったのだから。
殺してしまうのでは、意味がない。
――しかし。
(このまま祓われたら、完全に消される)
綾子の身体から追い出されれば、解放された綾子と彰吾、二人を相手にすることになる。
彰吾が浮遊し、結界まで追いかけてきたことは予想外だった。
このまま逃げ切れる気はしなかった。
(やむを得ないか)
九十九は綾子の身体を完全に乗っ取ることにした。
――そのために、綾子の精神を完全に自分の妖気に取り込み、一体化する。
それは、綾子の記憶や精神を丸ごと取り込むということだった。
妖気を吹き飛ばす彰吾の風に抗うように九十九は綾子を取り込もうとした。
綾子の記憶が流れ込む。
父親や母親にあやされた幼いころの記憶。
笑いかける父母に向ける、九十九が理解できない感情。
人間を取り込む度に、こんな想いを抱ける人間を羨ましいと感じた。
あの鵜原 百助でさえ、親に対してその気持ちを持っていた。
(――この気持ちを理解できれば、私は完全になれるのに――)
その時、九十九の思考が止まった。
綾子本人はもう思い出せないが、心に刻まれた過去の記憶が九十九に流れ込んだ。
(これは――)
***
『爺ちゃん、これが綾子だよ。俺の娘だ』
綾子の父親が、綾子を高く掲げて誰かに見せる。
『おお、めんこいなあ』
しわしわの笑顔を見せる老人。
その表情が九十九の一番よく知る人間の女に重なる――『はる』に。
『女の子は男親に似ると言うが、この子は静江さんによく似て良かったなあ』
『爺ちゃん、俺爺ちゃんに似てるって言われるのに……』
呆れたように綾子の父親はそう言うと、『爺ちゃん』を見つめた。
『爺ちゃんは母さん似?』
『そう言われるが、自分ではわからんのよ』
『爺ちゃん』は悲し気に俯いた。
『俺の母ちゃんも父ちゃんも妖に食い殺されちまったらしいからなあ』
頬を掻くと、話題を変えるように顔を上げ言った。
『しかし、華族のお嬢さん連れて駆け落ちとはお前もやるなあ』
――記憶は変わり。妹の佳世が生まれ、藤宮家に戻る場面。
『お父さん、なんで苗字変わるの?』
『お母さんの家は偉いからなあ。今日から母さんの家になるんだ』
――次に、女学生時代の記憶。
席に座る綾子に、前の席の少女が振り返って笑いかける。
『私、桜っていうの! よろしくね!』
『さくら……』
綾子は少し考えこむように黙った。
『どうしたの?』
『ごめんなさい。お花の『桜』よね。綺麗な名前ね』
『ありがとう。――花の桜以外ある? 初めて言われたわ』
綾子は少し躊躇してから言った。
『親戚の――親戚の、苗字が『咲良』というの。ごめんなさいね』
『ああ、そういうこと。――それで、あなたの名前は?』
『あっごめんなさい。――綾子です』
『……謝らなくていいわよ。あなたさっきから謝ってばかり』
『ごめんなさい』
『ほらぁ、また』
『――あ、ごめ――』
桜は噴出した。
『――言うと思ったけど――』
それからにっこりと笑って言った。
『綾子も素敵な名前ね。よろしくね、綾子』
『よろしく……』
***
「さくら」
九十九は綾子の口で思わず呟いた。
――思い出すのは、小春日和の陽だまりの縁側。
『さくら』
鵜原 百助の姿の九十九は、そう呟いた。
『あっ』
びくっとしたように『はる』が振り返る。
『――どこかに桜でも見に行くか、と聞こうと思っただけなのだが』
九十九は顔をしかめて言った。
『何をそんなに驚いているのだ』
『すいません――学校に行っていたころのことを思い出して』
『学校?』
『さくら、私の前の苗字ですから。――私、旦那様と結婚する前は、咲良 はるという名前だったんですよ』
九十九ははるの髪を撫でた。
彼女の思考を読み取る。
――さくらぁ
校舎の裏にしゃがみこむはるを、上から数人の女学生が覗き込む。
――こそこそ逃げてるんじゃないわよ、咲良ぁ!!!!あんた人の恋人たぶらかして逃げられると思ってんの? さすが売女の娘ね!
――妖としての九十九の嗅覚を刺激する、恐怖心を感じたのは一瞬――すぐにそれは別の感情へ変わる。
(まただ……これは、【諦め】の匂いだ)
普通の人間は恐怖心や痛みを感じると、妖にとっての【旨味】が出る。
――それは、傷ついた生命力のようなものが発するのだと、九十九は解釈していた。
しかし、この女は、はるにはその【旨味】が存在しない。
【諦め】という言葉が合うのだろうか。人間の負の感情を喰らう妖にとって、それは【旨味】がなく無味乾燥した ――人間で言うならば乾いた米をそのまま齧るような、そんな感覚しかないのだった。
この「はる」という女は、この【諦め】に満たされている。
だからこそ、この女なら食欲を刺激されずに一緒に過ごすことができると思ったのだが。
(こういった場合に、夫が妻にかけるべき言葉はなんだろうか)
はるの髪を撫でながら、人間の感情を理解するために読んで来た小説や劇の台詞を思い出しながら、九十九はしばらく思案して、呟いた。
『桜は春の花で』
『そうですね……?』
はるはきょとんとした顔で九十九を見た。
『とても、美しい花だ』
「うん」と九十九は頷く。美しさについては、自分はよく知っていると自負がある。
『お前に似ている花だと、私は思う』
はるは一瞬驚いたように目を見開くと、頬を赤らめてはにかんだ。
『ありがとうございます。――嬉しいです』
【旨味】の匂いが鼻先をかすめて、九十九は眉を動かした。
(この女は、今【幸福】を感じている?)
こういう状態の人間をいたぶった時に一番美味い悲鳴が味わえることを九十九は知っていた。
『――春生まれなので、『はる』と亡くなった母が名前をつけてくれたんです。母は桜が好きで、本当は名前を桜にしたかったみたいなんですけど、それだと『さくら さくら』になってしまうから諦めたみたいで』
九十九の心中など知る由もなく、はるは恥ずかしそうにしきりと前髪を直しながら言葉を続けた。
『そうか』
『……そうなんです』
九十九は強く拳を握って、妖の本能からの意識をずらした。
(この女が桜の中に立てば、美しいだろうな)
ため息を吐いて自分の手を見つめた。
(――私の本来の姿で横に立てれば、なお美しいのに)