57.「君は私の「はる」になるんだよ、これから」
九十九の結界の中は、彼と自分以外は暗い闇があるのみで、時間の流れがわからなかった。
綾子は堅い布団に頬をつけているような奇妙な感覚を感じながら、ひたすら横になっていた。目の前には焼け焦げた修介の腕が転がっていて、そこから漂ってくる『何か』がとても香ばしく鼻先をくすぐる。
(これが、きっと、妖の言う、『美味しい』という感覚なのね)
今まで対峙してきた妖たちは、口をそろえて『人の苦痛の叫び声ほど美味いものはない』と言っていた。叫び声に味がするという意味がわからなかったが、今ならわかる。黒焦げの腕にまとわりついているのは、たぶん『苦痛』『痛み』の感情なのだろう。それが、飢餓状態の前に、いきなり豪勢な食事を出された時のように、『食べねば』『美味しいに違いない』と思考に訴えかけてくる。
じゅるり、と口の中に涎が溢れた。
「喰らわないのか。もったいない。時間が経つと旨味がどんどん減るというのに」
九十九は首を傾げた。
「まぁ、口で喰らわなくたって、私たちは近くに君たち人間の言うところの『負の感情』というものがあれば、養分はとれるのだけれどな」
綾子の横に腰掛けると、九十九は一人語りを続けた。
「この墓場には、たくさんのそういったものが渦巻いているだろう? ここは良い寝床だった。お前の父親に大怪我を負わされてから、ここで長い間寝込んでいたよ」
どこか遠くを見つめて、九十九は話し続ける。
「横になっていると、渦巻く何かが傷を癒してくれた。――と同時にね、もっと喰らいたい喰らいたいと思うようになったんだ」
少しの沈黙の後、九十九はまるで子どものように顔をほころばせた。
「人と話すというのは楽しいね。こんな風に人と語らうのはいつぶりだろうか。――妖というのは、食欲ばかり旺盛な獣のような者が多くてね。私は会話に飢えていたんだったっけね、そういえば。やはり君は特別だ」
(何を、他人ごとのような)
綾子は思わず怒鳴り返す。
「あなただって――飢えた妖でしょう! 何人も何人も鬼に変えて!」
「心外だな」と九十九は眉をひそめた。
「鬼にはしたけれど、喰らってはいないだろう。他の妖と一緒にしないでほしい」
「……!」
確かに九十九は女性を複数人鬼に変えたが、そのまま放置し、自分から喰らったわけではない。それは、他の妖と違う点だ。――しかし、
(でも、鬼にされた娘たちは死んだわ。彼女たちの周りの人間も死んだ)
「あなたが、あなたが、殺したんでしょ、何人も!」
「私が鬼にした人間を殺したのは、君たち妖狩りだろう? 何人かは君が燃やしたのだろう。君の記憶で見たよ」
九十九は本気で困ったように首を傾げる。
綾子は唇を噛んだ。
(それは、あなたが鬼に変えたから、もう戻せない状態だったのだから!!!!)
そう叫びたかったが、言っても無駄だということは今までの会話でわかっていたので、何とか言葉を飲み込む。九十九はしばらく俯くと、呟いた。
「うん……でも、少し焦りすぎただろうか。長い間ここで寝込んでいて、他の妖のように、気が短くなってしまったようなんだ。これでも昔はもっと辛抱強かったんだよ、私は」
それから綾子を見て、微笑む。
「しかし、じっくり見れば見るほど、君は『はる』に似ているね。――うん。君を見ていると、だんだん思い出してきた。『はる』はこんな感じだったな。君よりもっと小さく細かったけれど、顔立ちが似ている気がする」
先ほどから九十九が口にしている『はる』という言葉。
(――誰か、人の名前?)
九十九に対処する情報が得られるかもしれない。
「――その人は、誰なの」
「――誰? 彼女は、私の妻だ。――私の妻は『はる』なのだから、君が『はる』になってくれればいいんだよ」
(何を言っているか、全くわからないわ)
「私は、『綾子』よ。『はる』じゃない」
綾子は首を振った。
「人間は、みんな違うのよ」
「――何を言っているか、わからないな? 君は私の「はる」になるんだよ、これから」
九十九は「本気でわからない」という表情で首を傾げた。
(頭がおかしくなりそう)
綾子は焼け焦げた修介の腕が見えないように、ぎゅっと頭を抱えて丸くなった。
(――佳代、桜、隊のみんな――彰吾くん)
――みんなのところに戻りたい。
瞳をぎゅっと閉じたその瞬間、
「綾子さん!!!!」
頭に思い浮かべた声が、実際に音として耳に届いた。
「え?」
驚いて声を上げ、瞼に光を感じて、目を見開く。
真っ暗な暗闇だけだった結界が裂けて、青い空が見えた。
そこから光が差し込んでいる。
――そして。
「――彰吾くん?」
そこから彰吾が綾子に向かって手を差し伸べていた。
「――彰吾くん!!!!」
綾子はその手を掴むように自分の手も伸ばした。
 




