56. (今は、そんなこと、どうでもいい!)
【獣】の家紋は動物の意識や思考を制御する力を持つ。
直接対象に触れて発動することで、自分の意識を一部動物に移すこともできる。
妖が人間に取り憑くのに似た力だ。
「――副隊長、綾子さんの気配、わかりますか?」
「……」
彰吾の問いかけに意識を半分武蔵に移している波左間本人は、虚ろな瞳で頷いた。
「わん! わん!」
代わりに、武蔵が吠え越えで答えた。
たっと走り出した黒い犬の後ろを彰吾は追っていく。
――着いたのは、無縁仏の墓が密集する地帯だった。
「この辺りで、使ってみるぞ」
雅和はそう言って、紋具【風影尋踪符】を取り出した。
鳥籠の中から、鈴のついた銀製の鳥の札を取り出すと、空いた籠の中に綾子のドレスや手帳を詰め込み、右腕を上に掲げて家紋を発動する。
りん、と小さく音を立てて、複数の銀の鳥は空へと舞い上がった。
何かを探し求めるように、空中を旋回しながら移動していく。
(――反応、あってくれ)
彰吾は祈る様な気持ちで、空中をぐるぐると回る鳥を見つめていた。
――と、しばらくぐるぐると四方八方を回転していた鳥たちが、一斉に西の方角へと進みだした。
家紋を発動している雅和を置いて、彰吾たちはその方向へ駆けた。
りんりんりんりん!!!
けたたましい鈴の音が周囲に響き渡った。――が、札の鳥の姿は見えない。
音は遥か上から聞こえてくる。
「――結界が、上にある?」
波左間が目を凝らしながら呟いた。
妖が作り出す、実際の世界とは違う空間――結界。
その入口が空中――はるか上にあるということを示していた。
「――これは、厳しいな」
武蔵から自分の身体に意識を戻した波左間が顔をしかめて呟いた。
妖は空を飛ぶ力を持つが、家紋の能力で空を飛べる人間は通常いない。
【疾風】の力を持つ彰吾も、自身を浮遊させることはできない。
――空は、妖の独壇場だ。
しかし、空中に結界を張る妖はそれほどいない。
固定された物の存在しない空中に結界を作ることは難しいからだ。
――そこに結界を張っているということは、九十九の力は通常の妖より強いことを証明している。
「波左間さん、伝書烏に憑依して、結界を破ることは――」
「様子見くらいはできると思うけど。――そこまでの干渉はできないな」
波左間は苦し気に首を振る。
「戦闘機でも手配しないと近づけないかもな」
彰吾はぎりっと唇を噛むと空に向かって手を向けた。
家紋の力を発動し、鈴の音が鳴る方へ向かって細く激しい渦巻を起こす。
「――空間の割れ目がどこかにあるはずです」
妖力で造られた妖の結界を破るには、妖力に近しい家紋術の力で衝撃を与える必要がある。空中にそれがあろうとも、【疾風】の力で衝撃を与えられれば――。
「―――!」
彰吾は目を見開いた。
渦巻から伝わってくる感触に、やや違和感があった。
他の場所とは違う感触。
上を見上げて手のひらを掲げる。
その感触があるのは、はるか上空――渦巻の力をそこへ集中させるが――
「駄目だ」
彰吾は顔を下に落とすと、だんっと地面を踏みつけた。
「鈴原――方法を、考えよう」
波左間は俯く彰吾の肩を叩き呼びかけたが、彰吾は首を振ると再度上空を見つめて叫んだ。
「駄目――じゃないだろう!」
それは自分への叱咤だった。
(――綾子さんのために、できないことなんて)
「ないだろ!」
彰吾は宙に向かって咆えると、目を瞑り、風を操るための意識を強化した。
ざざざざざと彰吾の周囲を囲むように風が流れる。
「鈴原――!」
周囲の空気が変わったことを感じて、波左間は数歩後ろへさがる。
彰吾の周りを旋回する風は勢いを増し――そして。ふわりと、身体が浮き上がった。
自分の中で今までに使ったことがない感覚が繋がるのを感じた。
(――俺は、綾子さんのところまで、行ける)
「――!? 彰吾、お前!!!」
宙を浮かび上がっていく彰吾を見つめて、紋具を操っていた雅和が目を見張った。
空中を飛ぶことができるのは妖だけ。風を操る【疾風】の家紋の一族でも、浮遊するなど、そんな人間離れした家紋術の使い手など見たことがない。
「――養父さんは、紋具を使い続けてください!!!」
彰吾は鋭い口調で言った。
結界に近づくには上空で鳴り響いている鈴の音を頼りに行くしかない。
雅和ははっとして頷くと、紋具の操作に集中した。
(――このあたり)
気がつくと、彰吾の周りで、銀の鳥たちがりんりんと鈴を鳴らしていた。下を見下ろすと、雅和や波左間の姿は点のようだ。彰吾は霊園の上空を浮遊していた。
(このあたりに、結界の入り口があるはず)
彰吾は腕を掲げた。
(!!)
ちらりと自分の腕を見て、瞳を見開く。
そこには、見慣れた【疾風】の渦巻のような家紋の上に、羽のような形の見たことのない家紋が浮き上がっていた。
(これは、たぶん、菊門家の)
自然と理解した。これは自分の中に今まで当然のようにあった力だ。
【超越家紋】とも呼ばれる、通常の家紋の力を越えた、顔も覚えていない父方の血の力。
この家紋さえあれば、母親と自分は菊門家の人間として過ごせていただろう力。
――しかし、
(今は、そんなこと、どうでもいい!)
彰吾は鈴を鳴らす銀鳥を見つめた。
父親だとか母親だとか、そんなものはどうでもよかった。
(綾子さん! 早く、綾子さんのところに行かないと)
彰吾は右手を掲げた。
結界を開くには、家紋の力で妖の結界を破るのみ。
「渦巻」
呟きと同時に、風の渦が巻きあがった。
その渦巻は、そこにあるものを全て吸い尽くすように回転していた。
彰吾はその渦の力をさらに強める。
――すると、周囲の「何か」が崩れてその中に吸い込まれた。
空がぐにゃりと歪んだ。
そこに黒い空間がぽっかりと洞窟の入り口のように開いた。
――その先に白髪の長身の男と、横たわる綾子が浮かんでいた。
「綾子さん!!!!」
彰吾は名前を叫ぶと、その空間の中に飛び込んだ。




