50. 「死なせ、ない。あんたが死んだら」
(……何……なの、あの妖)
華は倒れこんだまま、視線だけを上げて飛び去る綾子を見つめていた。
ばたばたと聞こえてくる応援の足音を聞いて、華は今は何もしないほうが良いと判断して、そのまま九十九を見送ったのだ。今は頭を少し上にあげるだけでも、身体がしんどかった。この状態では、できることは何もない。応援が来たら、事実をありのまま告げること。それが自分にできる最大限のことだと華は判断した。
医療部隊の隊員である華は、前線で妖と戦った経験はない。
しかし、負傷した隊員から妖との戦いについて詳しく聞くことは多かった。
彼らの経験談によると、妖は「人を喰らうこと」しか考えておらず、人間の言葉を解する知能を持った妖でも、その目的はあくまで「人を喰らうこと」でしかない。
――しかし、あの九十九という妖は。
(『愛』を語る妖? ――そんなの、聞いたことがないわ――)
あの妖が自分を鬼に変えたのは、人を狩らせるためではない。
ぼんやりとした記憶で、九十九に言われた言葉を思い出す。
『妻になってくれ』
(人を狩らせるためではなく、『妻』にするために鬼に変えたってこと……?)
そんな行動をとる妖なんて、聞いたことがない。
(それなのに、さっきは)
『――『あれ』はもう駄目になってしまった』
(私のこと、『あれ』ですって……?)
あの妖は華の名前にも人格にも何の執着もなかった。
(愛だの、妻だの言っているくせに、相手のことなんか見てやしない。自分の欲のままに動く――やっぱり、妖だわ)
そんな相手に心の隙につけ入れられたのが悔しかった。
一瞬でも、あの妖を『自分の気持ちを理解してくれる何か』だと思ってしまった。
そこにつけ入れられたことが悔しかった。
そして、それを藤宮 綾子に救われたことも、悔しかった。
(自分の欲のままに動く、相手を見ない)
その言葉はそのまま自分に突き刺さった。
(私、私だって、修介さんのことなんか見てなかった)
「藤宮 綾子」
華は綾子の名前を呟くと、
(私のことなんか放っといて、私ごと全部焼き払っちゃえば良かったのに。どうせ、誰も私のことなんかわかってくれないんだから、私なんか消えちゃっても良かったのに)
頭を抱えて嗚咽した。
(――誰も? 本当に誰も?)
『あたしはあなたの幸せを、いつも願ってる』
綾子の言葉が、姉の、早矢の声で再生された。
自分を抱きしめた綾子の腕の感覚を思い出す。
それは――父親が病気で死んだとき、半狂乱の母親が見えないように抱きしめてくれた姉の腕と重なった。
(私、まだ、やらないといけないことが)
華は身体を起こすと、
「――修介さん――」
ずるずると黒い塊になった修介に這って近づくと、手を触れた。
全身に火傷を負い生命力が尽きようとしている――が、まだ完全に尽きてはいない。
華は安堵の息を吐くと呟いた。
「死なせ、ない。あんたが死んだら藤宮 綾子が、」
あの妖は綾子を自分と同じように鬼に変えようとしていた。
もし、このまま修介が死んでしまったら、綾子が人に戻れなくなるかもしれない。
(あんたみたいな人でも、あの人は、自分より人のことを気にかけるから、――お姉さまみたいに)
【若草】の家紋を発動する。
緑色の光が修介を包んだ。修介の焦げた身体にわずかに血が通った肌が戻った。
(最低限、回復したはず、大丈夫、死んでない)
あとは、医療部隊の治療をすぐに受ければ何とかなるだろう。
力を使い果たした華は仰向けに倒れた。
空中へ手を伸ばすと呟いた。
「……お姉さま、何で死んじゃったのよぉ」
華はそう呟いて顔を覆った。目から涙がとめどなく流れ落ちる。それをぬぐう気力も残っていなかった。早矢がいなくなってから、早矢を思い出して泣いたのはこれが初めてだった。
***
――その頃、非番の彰吾は養母の砂羽と買い物に行っていた。
今百貨店で北方地方の物産市がやっているようで、それを見に行きたいという砂羽に付き合っての外出だった。
「あなたとお買い物に行けるなんて嬉しいわ」
砂羽は顔をほころばす。
「おかげでたくさん買ってしまったわねえ」
彰吾が抱えた買った荷物を眺めながら微笑む。
「助かるわ。――雅和さんは『人込みは嫌いだ』ってついてきてくれないから」
そうぼやきながら、巻き寿司が売っているのを見つけ、
「お父さま、あれお好きだものねえ。買って帰りましょうか」
と1人頷く。「ゆっくり選んできなよ」と彰吾が言うと、嬉しそうに売り場へ向かって行った。
(なんだかんだ、養父さんと養母さんは、仲が良いよな)
その後ろ姿を見送りながら、彰吾は隅の腰掛に腰を下ろし、そんな風に思った。
(母さんも、父さんとこういう夫婦になりたかったんだろうか)
鈴原家を出て以来一度も顔を見せない実母のことを考えた。
(そういえば、母さんのことを考えるのは久しぶりだな)
自分を置き去りにして出て行った母親を許したわけではないが、最近はその事実を気にすることが減った。
(そのぶん、綾子さんのことを考えてるからなぁ)
彰吾は頬をかいた。
綾子が家に訪問してくれた日から、養父母である祖父と祖母と話す時間が増えた。
(今までのことを気にするより、綾子さんとどこに行きたいとか、そういうこと考えてた方が楽しいしな)
最近は本当に毎日が『楽しい』と思える。街を行き交う家族連れを見ても微笑ましく思うだけだ。2年前のあの日、妖に唆され人間であることをやめようとしたのが嘘のようだ。
(綾子さんのおかげだなあ。綾子さん……)
彰吾は空中を見つめた。
(綾子さん……どうしてるかなぁ。今日は詰め所で書類仕事だけだから、危ないことはないはずだけど)
綾子が危険に巻き込まれないように、妖退治の現場に向かう時は必ず一緒に同行するように仕事を調整していた。休みの時も、危険がないようにこっそり後ろをつけていくようにしていたところ、さすがに気づかれ今日は『休んでください』と強く言われてしまったのだ。
その時、周囲の客がざわめいた。
ばたばたばたと鳥の羽ばたきの音が聞こえる。
顔を上げると、烏が一羽、百貨店の中に入ってきていた。
「!」
彰吾は勢い良く立ち上がった。足に防衛隊の字が入った足環をつけた烏。――防衛隊が伝令で使役している伝書烏だ。
烏は「カァ―」と大きく鳴いた。
そこには、家紋を持つ者の耳にだけ聞こえる伝令が込められている。
【本部にて妖襲来。隊員は集合すること】
「養母さん!」
彰吾は慌てて砂羽の姿を探した。商品売り場に立っていた砂羽は、彰吾を見つめると手を振った。
「彰吾、行っていらっしゃい」
家紋持ちである砂羽にも伝令の言葉は聞こえていたようだ。
彰吾は頷くと、足早に百貨店を出て走った。
店の前に止まってた車の運転手に、防衛隊の隊紋が入った手帳を見せる。
「緊急事態なので、車を貸してください」
いざという時は、防衛隊の権限で市民に協力を要請することもできることになっている。
「あ、ああ、防衛隊……」
「参番部隊隊員、鈴原 彰吾です。ご協力ありがとうございます」
そう言って頭を下げると車に乗り込んだ。
(綾子さん……なら、大丈夫だと思うけど……)
何とも言えない不安が押し寄せて、彰吾は車を加速させた。




