42. 『何故、そこにいる』『旦那様――なのですか』
人間に取り憑くときに、妖はその人間の記憶や知識を取り込むことができる。
そのため、「鵜原 百助」に成り代わることは容易だった。
九十九が取り憑く前のこの男は怠惰で傲慢な放蕩息子だったらしい。
身体を乗っ取った後、人間の生活に馴染むため真面目に家業の呉服業に取り組めば、『人が変わった』と賞賛さえされた。
(息子が私に成り代わっても気づかないとは)
九十九は自分のことを疑いもしないこの男の両親に失望した。
(人間なら、誰しも【愛】を持っているわけではないのだな)
自分が今まで喰らってきた人間は、自分の身を捨ててでも愛する者の命を助けてくれと懇願した。それを踏みにじった時の絶望の感情こそ、妖が美味いと思う食事だ。だから本能でそのような【愛】を知っている人間を襲ってきたのだと九十九は気づいた。
(例えばこの両親の前でこの男をいたぶっていたとしても――美味い叫びは聞くことはできなさそうだ)
この男の両親は自分の身を優先して逃げ出しそうだ。
(【愛】を持てない人間がいるというのなら、反対に【愛】を持てる妖もいてもいいのでは?)
九十九はそんなことを考え『妻』を見つめた。
『旦那様』
そうすると彼女は嬉しそうに振り返っていつも微笑んだ。
「鵜原 百助」という人間に成り代わった九十九の妻となったその女の名は「はる」と言った。九十九は「はる」のことをそれなりに気に入っていた。
彼女は大人しく従順で、いつか喰らったあの妖の女のような狡猾さがなかった。
妖に足りない部分を持つ綺麗な存在――九十九は「はる」をそう認識していた。
『旦那様、ありがとうございます』
物を買って与えてやると、はるは瞳を大きく見開き輝かせる。
(人間はこんなもので喜ぶのか)と彼女が喜ぶ姿を面白がって、花や菓子やらを贈ることも多かった。
(もしかして、私は彼女に『愛』を感じているのでは)
九十九はそんなことすら考えた。
そしてついに。子どもができたのだ。
九十九は自分の『家族』を持つことを強く望んでいた。いつかそれが叶ったのなら、『嬉しい』と自分は思うだろうと、思っていた。――しかし、
『旦那様、実は』
そう嬉しそうに腹を撫でる妻を見て九十九の脳裏に最初に浮かんだのは。
(――今、正体を明かして、お前の腹の中の子は妖の子だと告げて、腹を裂いてやったなら)
――どんなに美味いだろう――
じゅるり、と口の中に唾液が滴った。
『旦那様、あの、喜んでくださると』
――九十九は不安げに自分を見上げるはるの瞳を見て我に返った。
『そんなことはない! とても嬉しいよ、はる』
九十九は作り笑顔を浮かべて声を張り上げた。
(私は、今、何を思った?)
九十九は衝撃を受けていた。自分は他の妖とは違う。理性を持った上位の存在だと思っていたがゆえに、真っ先に自分の脳裏にその考えが浮かんだことが受け入れられなかった。
――しかし、日が経つにつれ、彼女は増々、九十九の【食欲】を刺激する存在になっていった。
かつては生気がなく、人形のようで美しく感じられたはるが、腹が大きくなるにつれ、生気に溢れた美味そうな食材に見えてくるようになった。
その食材が自分の寝床の横で無防備に寝息を立てている。
(喰らいたい)
九十九は本能の昂りを抑えるために、夜な夜な町に出て、狩りをするようになった。
今までは足がつかないように、百介の身体から抜け出して遠方で年に数人喰らう程度だったが、食欲を刺激するはるの近くにいると、何故だか無限に腹が減って堪えられなくなってしまう。霊体で静かに喰らうだけでは満足できなくなり、実体で狩りをするため百助の身体ごと夜の街に出ることが増えた。
そんな日が続いたある日、深夜の町でごろつきを捕まえ、いたぶっていた時だった。男の上げた悲鳴に驚いたようなか細い女の声がして、振り返ると口を押えて呆然とした表情のはるが立ちすくんでいた。
『何故、そこにいる』
九十九は動揺して問いかけた。
『旦那様――なのですか』
はるはかすれた声で問いかけた。
九十九は自分の身体を見た。人をいたぶるため、手足を異形の形へ変形させていた。
『……』
九十九は逡巡した。隠し通すことはできるだろうか。
(――いや)
首を振る。彼女はもう九十九が自分の夫であると確信している。このまま家に帰せば、天敵の妖狩りの防衛隊員を連れてくるだろう。
(面倒なことになったな)
『どうしたものか』と九十九が逡巡しながら近づこうとする九十九の後ろで、先ほどまでいたぶっていたごろつきの男がはるに向かって手を伸ばした。
『助け……』
『静かにしていてくれないか』
いらつきを感じた九十九はごろつきの頭を踏みつけた。
『ひっ』とはるが悲鳴を上げて、どさりと尻餅をついた。
『旦那様……』
震える声で彼女は言った。




