36. 「本当だったら吹っ飛んでもらいたいところでしたけど」
「! 修介さん!?」
驚いた綾子は後ずさろうとしたが、修介は腕に力を入れてそれを止めた。
「なんで俺にはそういう面を見せてくれなかったんだよ。あんな新入りより俺の方が……」
修介は最後まで言葉を続けることができなかった――体がふわりと優しい風に包まれて、と、と、と、と、と、と五歩程後ろに移動してしまったのだ。綾子は家紋の力が使われた気配を感じて振り返った。
(この風は……)
「綾子さんに何の御用ですか」
綾子の背後の暗闇から、ぬっと隊服姿の彰吾が現れた。
彼がいつも応対する時に浮かべている人好きのする笑顔は完全になく、真顔だった。
「彰吾くん!? いたんですか? 詰め所で別れましたよね……?」
綾子と目が合うと、彰吾はにこにこと相好を崩した。
「そうなんですけど……、夜道で綾子さんが危ない目に遭ったらどうしようかと思って……、ついてきてしまいました」
「――気づかなかったわ……」
綾子は少しショックを受けて、呟いた。
防衛隊のいち部隊の隊長を務めている自負はあったので、後をつけられていて気づかなかったことに衝撃を受けた。
彰吾は照れたように頭を掻いた。
「綾子さんに気付かれないように、足音も気配も消していましたから」
修介はそんな彰吾につかみかかると、襟元をぐいっと掴んだ。
「お前……! 今、俺に家紋の力を使ったな!?」
「使いましたけど、何か?」
彰吾は表情を真顔に戻して、修介を睨んだ。
「――人に対して、力を使うのはご法度だってわかっててやったか?」
「わかってますよ。だから優しくふわっと綾子さんから離れてもらったんじゃないですか」
呆れたような表情で、首をつかまれたまま両手を広げた。
「本当だったら吹っ飛んでもらいたいところでしたけど」
「お前……! 俺のこと馬鹿にしてんのかぁ?」
「いえ、別に馬鹿にはしてませんけどね」
彰吾はため息を吐くと、修介を睨んだ。
「とにかく、綾子さんに近づかないでください、二度と」
「新入りが! 俺が自分の婚約者に近づいて何が……」
「も・と! 元・婚約者でしょう! あなたがもったいなくも、綾子さんとの婚約を勝手に破棄したんでしょう!」
彰吾は修介の腕を振り払うと、指を突き立てた。
「綾子さんは、今は、俺の婚約者です!」
そして、深いため息とともに腕の家紋の紋章を光らせる。
「迷惑なんですよ」
ひゅるりひゅるりと風が修介の周りを取り囲むようにぐるぐる渦巻いた。
「彰吾くん!」
綾子は焦って彰吾の肩を掴んだ。
妖ではない人間に私情で家紋の力を使ってしまえば、除隊や程度によっては刑罰に処されることもある。
「神宮寺さん自体は傷つけないので安心してください」
彰吾はにっこり笑うと、ぱっと右手を挙げた。
しゅぱぱぱぱぱと風が何かを切り裂く音が響いた。
綾子も修介も何が起きたかわからず瞬きを数度。
何か花びらのようなものがひらひらとたくさん空中を舞っていた。
「――ぅあ?」
修介は間の抜けた声を出して、身体を押さえた。
いつの間にか彼は褌一つで路上に立っていた。
――宙を舞っていたのは、修介が着ていた着物だったのだ。
「お前――! お前――!!」
修介は羞恥心と怒りで肩を震わせると、右手を空に掲げた。
体中に稲妻のような【雷霆】の家紋が光った。
ゴロゴロゴロと彰吾の頭上で雷鳴が轟く。
「『人に対して、力を使うのはご法度だ』って、先ほどあなたが言ったんですよ」
彰吾は肩をすくめた。
「あなたのような脳筋の方は、防衛隊辞めたら他の仕事できないでしょうから、やめといた方が良いんじゃないですか?」
「――っ」
修介ははっとしたような表情になると、唇を噛みしめ手を下げた。
雷鳴が止む。
「――それが賢明でしょうね」
彰吾ははぁと息を吐くと、綾子の背をくるりと後ろに向けた。
「綾子さん行きましょう。ご自宅まで送りますよ」
「いえ、でも……」
褌一丁で寒空に佇む修介を放っておいて良いものか。
振り返ろうとする綾子の頭に、修介は自分が巻いていた襟巻をかけた。
「綾子さんの目に毒ですから」
それから人差し指を天に向けるとくるりと回した。
ひゅんっと風が空を切り、ぷちっと布が切れる音がする。
「ぎゃあ」と後ろで修介が間の抜けた声を出した。
修介の褌が切れ、はらりと地面に落ちた。
「何が……」
彰吾は振り返ろうとする綾子の視界を遮るように立つと、そのままずいずい道を進んだ。
「放っといていいです、いいです」
「ちょ、ま、待てよ!」
彰吾は慌てたように声を上げた修介を振り返ると、睨みつけて言った。
「次、綾子さんに迷惑をかけるなら――今度はあなたの身体を切り裂きますからね。俺は別に防衛隊を辞めても、他の仕事もできますからね。あなたと違って」
「あ、それから」と付け加える。
「ゴミはきちんと持って帰ってくださいね。――それでは、お風邪に気をつけて、先輩」
くるりと指を回すと、飛び散った修介の着物の残骸がまとまって山になった。
***
綾子は自分の背中を押す彰吾の手に力が入っていることに気がついた。
(――かなり怒ってる、みたいね)
「――彰吾くん、ありがとうございました」
「いえいえ! 綾子さんに何もなくて良かったです」
「そんな、別に私は大丈夫ですよ」
「綾子さんは優しいですね。あんなクズにも」
「そんな言い方は――」
「いえいえ、神宮司さんはクズですよ。今さら現れて、綾子さんに触れるなんてとんでもない」
語気を強めた彰吾を見つめて、綾子は目をぱちぱちとした。
こんな様子の彼を見るのは初めてかもしれない。
「彰吾くん、――怒ってます?」
「怒ってますよ! あ、もちろん、神宮司さんに対してですよ」
彰吾は慌てたように顔の前で手を振ると、気まずそうに髪をくしゃっとした。
「すいません、取り乱した様子を見せてしまって」
綾子はその手を取るとぎゅっと握った。
「――いえ、私のために怒ってくれて、嬉しかったです」
修介に肩を掴まれ詰め寄られたときに、綾子は恐怖心を感じた。
それは、常日頃妖相手に命の危険を伴う任務をこなしているが、その時に感じる恐怖とは別の恐ろしさだった。
――それが、彰吾の声を聞いた瞬間、安心感に包まれた。
言葉は自然に唇からあふれた。
「――好きです」
「――――」
彰吾はあんぐりと口を開けたまま停止した。
その様子を見て、何度か瞬きをした後、綾子は自分が口から出した言葉を認識して、頬を押さえた。顔が熱くなる。
(私――今、言ってしまったわよね――)
指の隙間から彰吾を見ると、真っ赤な顔でこちらを見ていた。
彰吾は小さい声でつぶやいた。
「ちょっと、嬉しすぎて、うまく言葉が。……俺も、綾子さんが好きです」
「――はい。いつも、ありがとうございます」
綾子は頭を下げた。
「私も、そう思っています」
肩を抱かれた感触があった。
顔を上げると、まだ赤い彰吾の顔が近くにあった。
先ほど修介ににじり寄られた時と同じような状況だったが、今感じているのは、安心感と幸福感だった。
「良かったです。――失神したり、しなくて」
桜の言葉を思い出してそう言うと、彰吾は噴出した。
「何ですかそれ。――あ、でも嬉しすぎて、一瞬意識飛びましたね」
「え! 本当ですか!」
「本当です」
「……すいません」
しょんぼりとした綾子の顔を彰吾が覗き込む。
「何で謝るんですか。嬉しすぎてですよ」
「――ありがとうございます」
「ふっ」と彰吾はまた噴出す。綾子もつられて笑ってしまった。
「何だかおかしいですね」
「本当ですね」
手をつないで、ゆっくりと家に向かって夜道を歩いた。




