6-調香師の初勤務
「おや、早かったですね」
ぎしりと重いボストンバッグを肩に掛け直してGarden Therapy -SHINOBU-の扉を開けると、忍はそう言って誠人を招き入れた。
「スミマセン。早すぎましたか?」
指定された時間より、十五分早く到着してしまった。
出社は十五分前。営業先には五分前に着き、様子をうかがいながらインターホンを押す。
営業部二年目の誠人に沁みついた習慣だ。
「いえ。もともと早めの時間をお伝えしていたので……少しお茶でも飲みましょうか。
コーヒーと紅茶、オレンジジュース、炭酸水、どうしますか?」
手で示された先は、革張りのソファと木目のテーブル。観葉植物代わりに配置された大きなドライフラワーが隠す、秘密基地……。
いや、まるで東屋のようだ。アンティーク調の豪奢なセットには、細かな彫刻があしらわれている。
「えっと、じゃあコーヒーで」
応えながら、誠人は抱えてきたボストンバッグを隣に置いて、ソファに浅く腰掛けた。
鞄は、仕込んだケースの形状に合わせてボコボコと歪み、中で硝子がカチャカチャと小刻みにぶつかる。
店と忍の雰囲気から浮かないよう、黒シャツ黒パンツに着替えてはみたものの、あまりに西洋風に整えられた空間は、どうにも不似合いな感じがして居心地が悪い。
そもそも美容院に、なんでこんなカフェみたいなスペースがあるのだろう。
店内に置かれたドライフラワーの陰には、まだまだドッキリがありそうだ。
誠人が落ち着かなさげにキョロキョロしていると、忍がティーセットを持って戻ってきた。
華奢で、往年のカフェにあるような白い陶器のティーカップ。
落としたら一発で割れそうだ。
二人揃ってカップに口をつけたところで、忍はタブレットで施術カルテを見せた。
「市川みずほさん……」
彼女が今日のお客さま。
「あれ。昔のほうがショートだったんですね。髪も明るいし、いまと違って通う期間も短い」
施術後に撮影した写真を順にスワイプしていくと、来店する日付の感覚が狭くなり、髪もどんどん短くなった。
忍は、視線だけでチラリと誠人の顔を盗み見た。
「はい。お子さまが産まれると、女性はなかなかご自身に時間もコストも掛けられなくなります。
以前はボブスタイルを好まれていましたが、一つに結べるようにと伸ばすようになりました。髪も根元が目立つからと黒髪に戻しました」
「女性って大変なんですね。俺なんて、伸びてきたなーって思ったら、十分カットに行っちゃいます」
「…………」
「なんですか?」
「いえ」
じろりと睨ねめつけるその目には、何かしら含みはあるようだが、忍は言葉にしなかった。
「こちらをご覧ください」
タブレットの一部を拡大すると、細かいメモが書かれていた。施術中に話したことや書き留める欄らしい。
誰の紹介だったのか、誰を紹介したのか、といった関係図まである。まるでプロファイルのようだ。
「すごい。美容院ってこんなにていねいなんですね」
「ほかの個人店がどうしているのか知りませんが、スタッフの多いチェーン店はそうでしょう。私の場合は人に見せることも、自分で見直すこともほとんどありません」
「じゃあなんで?」
質問には答えず、忍は「それはさておき……」と先を続けた。前回の来店記録を示す。
「あれ、先月来てる」
「はい。なので、カットもカラーも必要ないはずなんです」
「えっと、カラーしてないんじゃ?」
「していますよ。グレイカラーというやつです」
「グレイカラー?」
小首をかしげると、忍は陶磁器のような額に、キッと眉根にしわを寄せた。
「……白髪染めです。早い方では三十歳を過ぎると生え始めます。市川さまは、さほど多くないのですが、ご本人の希望ですね」
「えぇ…三十代たいへん……」
「全国の三十代女性を敵に回しましたね」
「そ、そんなつもりはありません!」
ブッとコーヒーを吹き出して反論する。忍は汚いものでも見るような目をして、話を元に戻した。
「前回のご来店のさい、少しお疲れが出ていたのは気がかりだったんです。できるだけお話は聞いたのですが……」
ここから本題なのか、と忍はカップを置いて姿勢を正した。
どくん、どくんと、心拍数が上がってくる。
ちゃんと役に立てるのだろうか。膝の上で、ぎゅっと拳を握りしめる。
「そのときは、お子さまが……」
ごくり、と生唾を飲み込む音が、誠人の体内にうるさく響く。
「綿棒をまき散らしたり、ティッシュを延々と取り出し続けたり、果てはトイレットペーパーを体にぐるぐるに巻いて部屋中走りまわるのだと、とてもお疲れのようでした」
「…………」
「…………」
「いや、それただの育児ノイローゼってやつじゃん」
「全国の子育て世帯を敵に回しましたね」
「規模広がってるから!」
この一瞬の緊張はなんだったのだ。どっと全身から力が抜けていく。
誠人は、「やれやれ」と言いたいところをぐっと堪え、小さくため息をついて、カップを持ち上げた。
それでも、脳内が高速に回転し始め、何のフィルターも通さずそのままブツブツと言葉が漏れ始める。
「まあ、それなら、過度のストレスか、イライラか、心配症か、もしかしたら寝不足もあったりするのかな……」
その様子を見ながら、忍もゆっくりとコーヒーを口元へ運んだ。
「お電話でお声を聞いたときは、だいぶ追い詰められているような感じがありましたね。
何か気がかりなことはあるようです。直接お話をうかがったほうがよいかと」
「なるほど」
ぱちんと弾かれたように、誠人は顔を上げる。
「いまの話で、何かわかったのですか?」
驚いた様子もなく、変わらない口調で忍は問いかける。
「いえ。家に帰りながら思ったんですよ。香りって、すごく繊細だから、実際に試さないと本当に受け付けるかどうかって、わからないんです」
「ほう」
「なので、いろいろ持って来ました」
ボストンバッグに手を掛けると、またカチャカチャと小瓶がぶつかる。
ジッパーを下げ、中から蓋つき収納ケースを三つ取り出した。
普段持ち出すことなんてないから、家にあった持ち合わせに、ていねいに揃えて入れてきたのだ。
蓋を開けると、キッチリ納まったアロマ精油とディフューザー、小さなビーカーに、攪拌かくはん用のスティック、キッチンペーパーなどが躍り出た。
忍のアーモンドアイが見開かれる。




