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香中忍のサロンと調香師の観察  作者: 水野沙紀
【第1章】ローズオットー級の美形
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5-花びら一枚めくられて

「……はい?」

意味がわからず、首をかしげた。


「当店の常連様が、お悩み相談にいらっしゃるのです。

 どうも少々、奇怪な出来事に見舞われているようでして……」


「ちょっと待ってください。それ、俺が聞いていい話ですか?」

 とてもプライベートなことのようだし、軽はずみに赤の他人に話すのはどうなのだ。第一、奇怪な出来事ってなんだ。


「はい。ですから、アルバイトをしていただきたいなと。

 その方のために、香りを調合してほしいのですよ」

「……は?」


「三十代半ばの女性。丸の内のオフィスにお勤めで、産休から復職して時短勤務をなさっています。旦那さまはその上司の方。

 その方が仰るには、お子様に関して打ち明けられないお悩みがあって辛いのだとか」


 言いながら、男はタブレットを操作し、誠人に差し出した。


「本日のご予約に関して、キャンセルはご承諾いただいたのですが、やはり気分が落ち込んでしまったようです。

 せっかく今日は保育園に預けて当店でリフレッシュするつもりだったのに、と」


 それって、単なる子育てのお悩み相談なのでは。


「先ほどあなたも仰っていましたよね。

 気分や状態によって、香りの調合が変わると」


確かに、そう言ったけれど……。


 タブレットに表示された写真は、施術後のものだろうか。この椅子に座っている。

 三十代半ばの子持ち女性にしては、ずいぶんと若々しい雰囲気の女性だ。ツヤツヤの黒いロングヘアがそう思わせるのだろうか。


「えーっと、さすがに本人に会ったこともないですし……」

「……そうですか」


男は、やや肩を落とした。鏡越しに、真っ直ぐ誠人を見つめたままで。


「…………」

「それは、とても残念です。あなたの観察眼は興味深いものがありましたし、常連さまのお気持ちが、より楽になるのではと思ったのですが」


有無を言わさぬ迫力が、ずるい。誠人は、口を真一文字に引き結んで視線を外した。


「とても、残念です」

今度は誠人の肩に手を置いてきた。イエスと言わないと解放されない雰囲気だ。


「わ、わかりました……!」

「ありがとうございます」


これだから美形はずるい。絶対に相手が自分の言うことを聞くと思っているんだ!……って、聞いてしまう自分も自分だが。


 (たぶん、姉ちゃんのせいだ)


 誠人は大きくため息をつき、ピンと人差し指を立てた。

「いくつか確認したいことがあります」

「はい。なんでしょう?」


「その方の現在の妊娠の有無は? 授乳中ですか? 既往症はわかりますか? てんかんなどを持っていなければいいのですが……」

「…………」

男が初めて目を大きく見開いた。


「わからなければ、危ないので調香できません。俺は趣味で作ってるだけで、なんの資格も持ってないんですからね」

ゆるりと口角を上げ、男は答えた。

「ぜんぶ、問題ないはずです」


「わかりました。ならいいです。

 それと、あくまで店内での芳香用にしてくださいね。嗅ぐだけです。販売やプレゼント、あと肌や髪に塗ったりは、資格がないとダメなんです」

「了解です」


 誠人は頭の中で図鑑を開く。目まぐるしい量の効能と禁忌、調合を組み立て始めた。

 家に新しい斜光瓶は何個あっただろうか。すべて煮沸してあるが、念のためアルコールで再消毒はしよう。


「何時にここに戻って来れば?」

「十四時半にお願いします。あぁ、それと……」

 聞かされたアルバイト代は、想像をはるかに超えていた。


「い、いいんですか?そんなに?」

「えぇ。突然のことですからね」

「あ、ありがとうございます!」


急な出費がかさんだいま、めちゃくちゃ助かる。


「じゃあ俺、一回飯食って、調香してからまた来ますので」

「はい。お待ちしております」

ドライフラワーで囲まれたサロンを背に、外に出ようとしたときだった。


「尾花誠人さん」

思わず、振り返る。

「あなたにとって、特別な香りはありますか?」

「…………」


 誠人は、天井に目を向け、つと考える。ドライフラワーの向こうに、当時の光景が見える気がした。

「……ラベンダー」

ほぅっと呼吸を吐くのに合わせて、ゆっくりと、呟く。


「ラベンダーですか」

「トイレの芳香剤じゃないですよ。あんなの、合成香料の詰め合わせでオエってなります」

「お気持ちはわかります」


 同意を受けて、誠人は床に視線を落とした。

 こんなことを人に話したことはない。どういうわけか、この男には隠し事ができない気がする。


「小学生の頃、家族で、北海道に行ったんですよ」

ボソボソと、言葉を舌に乗せた。


 視界いっぱいに広がるパープル色の渦。乾いた風に揺られて全身に沁みてくる、生花ならではの瑞々しくて優しい香り。

 姉の温かな手に導かれて畑に踏み出すと、世界がラベンダーに包まれているようだった。

 まだ背も低くて、本当に全身すっぽり覆われてしまったのだ。


「もしかして……」

「はい。富良野です。あの光景も、香りも、忘れられません」

あの頃は大きかった姉の手も。


「それじゃ、またあとで」

気恥ずかしさをごまかすように、誠人はいそいそと話を切り上げた。


「はい。お待ちしております」

「あ……」

それでも一つだけ。名前を、聞いておきたい。

男はついっと口角を上げた。

香中(こうなか)(しのぶ)です」

カチャリ。

と、静かに《Garden Therapy -SHINOBU-》の扉を開けた。


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