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香中忍のサロンと調香師の観察  作者: 水野沙紀
【第4章】サイプレスを封じた青年
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エピローグ‐「忍ぶ心」と「真の想い」

 株式会社トラストリーが勢力を上げて発表した新作アロマバームのニュースは、あっという間にネットの海に荒波を巻き起こした。


 『あの超絶イケメン誰?』『ぜんぜん経歴ないんだけど!』『海外で活躍してたモデルとか!?』


 そんな女性たちの投稿が、『#アロマ男子』とともに駆け巡った。


「尾花さん!あのモデルって忍さんですよね!めちゃくちゃカッコいいんですけど!でも、アロマ男子って尾花さ――」


 発表の翌日、出勤したとたんに、頬をオレンジ色に染めたあさひに詰め寄られ、誠人は思わず両手で口を塞ぎそうになった。


 セクハラにもパワハラにもなりかねないと、寸でのところで理性が勝って止まれたが、その勢いはあさひの口を封じる効力はあったようだ。


 あさひは顔の前で両手を合わせて、上目遣いで小さく肩をすくめる。


「スミマセン。内緒でしたね」


 誠人は無言のままぶんぶんと首を縦に振った。


 周りをぐるりと見回したが、朝の気だるさが蔓延していて、二人のやり取りに気づいている人はいないようだ。ほっと胸を撫で下ろした。


 翼の姿もなかった。出社したとたんに、翼にも何か言われるかもしれない。

 誠人は私用携帯を取り出すと、『アロマのことは何も言うな』と高速でフリック入力して即時送信した。


 エレベーターが開き、どっと人がオフィスになだれ込んでくると同時に、長身の翼がスマホをかざしてこちらにサインを送っているのが見えた。


(ギリギリセーフ……)


 腹の底から安堵のため息を漏らして、スマホでトップニュースになっているページを開いた。


『美形アロマ男子降臨!謎に包まれた経歴は?』


「そりゃ、商品より本人のほうが目立つよなぁ……」

「ですねぇ」

「え、声に出てた!?」

「はい。気をつけたほうがいいですよ」


 キラキラと瞳を輝かせるあさひの隣の席で、誠人はデスクに肘をついて、ぐしゃりと前髪を掻きむしった。


『美容系インフルエンサーコラボに続き、Garden Therapyが贈るアロマバーム第二弾。

 今回のテーマは《あなたの髪に触りたい》。

 上品でミステリアスなローズの【忍ぶ心】と、心を開放する森林浴のようなサイプレス の【真の想い】』


 コンセプトを考え、プロデュースしたのは、もちろん美咲だ。


「モデルは絶対に忍ちゃんだからね!

 じゃないと、一般流通としての契約はしません!

 誠人くんは監修として撮影当日は立ち会うように!」


 と、語気強く押し切られ、誠人としては「だったら作らなくてていいんだけど」と言いかけたが、忍が折れた。


 誠人への継続を提案したさいにカッコつけた手前もあったのか、どうしても「ノー」とは言えなかったようだ。


 トラストリー内では、忍については伝説級に語り継がれていて、「彼をイメージモデルにしたアロマバーム」というだけで、企画は通ったらしい。


 その容貌やミステリアスな雰囲気もさることながら、商品開発への情熱が強く、有能な研究職員。

 女性社員に片っ端から意見を求めていたら、いつの間にか各課の女性が研究室に足しげく通うようになり、活発な意見交換がなされる風通しのいい文化を切り開いたのだとか。


 退職はかなり引き留められたそうだ。


 本人としては「私はヘアケア商材の基本を身につけたかっただけです」という人生の通過点に過ぎなかった。


 いつの間にか美容師資格の通信制スクールに通い始め、短期登校期間とバレンタインが重なり、有給休暇をたっぷり利用して戻ってきたら、デスクの周りにチョコレートのコンテナが積まれていたようだ。


 美咲は「いつか絶対ネタになる」とその様子を撮影していて、それも企画書に添えたらしい。


 そんなわけで、「美咲が忍をイメージモデルとして落とせたら、トラストリーの一大企画として大々的に予算を投下する」という話になった。


 ネットをはじめ、雑誌、テレビ、街頭広告、あらゆるところで忍の顔が躍っている。

 それも、ポーズも表情もセクシーなのだ。


 (そんなものを調香した覚えはないのだが……)


 頭を抱えつつも、あのローズオットー級の美形がモデルなのだから仕方ない、と諦めに似た冷静さも湧いてきた。


 動画も写真も、相手は女性モデルではなく、人毛のマネキンなのだが、髪に触れて口づけを落とすようなショット。

 撮影中は、うっとりとした声や吐息がさざ波のように広がっていた。


 誠人としては、「なんでそこまでするのかなぁ」というのが本音だった。連れて来られたはいいが、やることもなく手持ち無沙汰なのがどうにも居心地が悪く、「早く帰りたい」と何度も思った。


 だけど、誠人が腕時計に視線を落とす度に、カメラマンの「忍く~ん。視線はこっちねー!もうちょっと目尻下げられる?ソフトな感じで」というダメ出しが響いて、連れて来られた理由を察した。


 カメラマンの声に釣られて視線を上げると、氷のような冷たい瞳が「逃げるなよ」と訴えてきたのだ。


 ホントに、忍がなんでそこまでするのか理解できなかった。


 そんなことを考えながら、今日もあさひを連れて営業の外回りにやって来た。


「あ、あれ。忍さんですね!」

「うげ」

 じゅわっと弾けるようなあさひの声で顔を上げると、渋谷のスクランブル交差点の巨大ビジョンに、でかでかとローズオットー級の美形が映し出されていた。


「逃げるなよ」と訴えてくる気がして、背筋に冷たいものが走る。

「尾花さんが監修してるんですよね。

 やっぱり尾花さんってすごいです!」


 両手の拳を小さく振ってはしゃぐあさひを尻目に、

「……いや、あれって採算取れるのかな…」

 と、五臓六腑がキリキリと痛み出した。


「へ?でも、シリーズ展開するんですよね?」

「え、なにそれ、どこ情報?」


 張本人なのに知らされていない。


「えーっと……」


 長い信号待ちのあいだに、あさひがスマホを開いた。


「あぁ、これです」


 示されたのは、トラストリーの公式SNS。固定投稿がアンケートになっている。


『アンケート回答とリポストで、プレゼントキャンペーン応募完了!

「Garden Therapyシリーズ」について

 1. 謎のアロマ男子の続投希望

 2. 美容系インフルエンサーとのコラボ希望』


「何この選択肢、継続しかないじゃん!」

「はい!しかもダントツで1の『謎のアロマ男子』が多いんです!

 私も忍さんに投票しておきました」


 にぱっと笑いながら見せてきた投票結果では、八割以上が「謎のアロマ男子」になっている。


「待て待て待て待て、聞いてない!」

「え、そうなんですか?

 でも、もう尾花さんやらないなんて言えなくないですか?」


 あさひがピンと人差し指を立て、渋谷の巨大ビジョンに向ける。内容は既に別の広告へと移り変わっていた。


「あれの掲載料って、数千万とか、数億円単位って聞いた気がしますよ」

「……え」


 今度は血の気が一気に引いていく。雑踏の音が遠のき、視界が白くにじんでくる。足元のコンクリートがゆらゆらと揺らぎ始めた。


 忍はまだしも、自分をイメージした香りなんて恥ずかしすぎて目も当てられないというのに、それに対して、数千万、数億円の広告費……。


 自分が趣味で監修しているような商品に、そんな膨大な広告費が投じられているのか。

 逃げられない。逃げられないではないか……。


 いまのところ、副業調香師の誠人は名前を出さないようにと念を押してあり、アロマ男子はあの謎のモデルだと思われている。


 だけど、バレるのも時間の問題のような気もするし、何より売れなかったときに、そんな膨大な費用の責任なんて取れるわけがない。


 いや、広告費はトラストリー持ち。

 誠人の懐は痛まない。

 だが、心理的には胃が痛い。


「…さん、尾花さん!」

「へ?」

「信号、変わってますよ」

「あ。あぁ……」


 あさひに急かされ、慌ててあとを追いかけるように人の波に乗った。


「ごめん。今日の商談、板野さんメインでお願いしていい?」

「え。急に無茶ぶりですよ」

「ホント悪いけど、これも経験だと思って。板野さんなら大丈夫だから。

 俺ちょっと、頭働いてない……」


 今日も営業マンとして、いつもの日常は続いている。だけど、頭の中はアロマ男子の事態の大きさに支配されている。


 ○○男子。

 YouTubeやSNSではもてはやされているが、そんなのイケメンにだけ許された生態系だと思っていた。

 実際に、表に出ているのは、あの国境を超える美貌の持ち主。


 だけど、その裏にはたしかに誠人という存在がいるのだ。

 今日も今日とて、靴の裏をすり減らしているというのに……。


「どうして、こうなった……」


 だから、気づかなかった。

 渋谷の雑踏に紛れて、憎々し気に大型ビジョンを見上げる榊原太一がいたことに――


 他人を蹴落としてでものし上がろうという本性を隠していた男。


 内なる心に何を秘めているか。いつか、きっとバレるときはくる。


 だけど、誠実な想いなのか、自己満足な傲慢さなのか。


 覆い隠してきた花弁が剥がされて、ぶわりと漂う心の奥底に忍ばせていた香りが、未来や周囲へとどう広がっていくのか、それは、人によって大きく異なるのかもしれない。

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