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香中忍のサロンと調香師の観察  作者: 水野沙紀
【第4章】サイプレスを封じた青年
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10-触りたくなるサイプレス

「ぶわっはっはっはっは!」

 翌日の夜、さっそく美咲を呼んで事の次第を話したら、腹を抱えて大笑いした。


 榊原へのお灸には大満足し、大手の重役たちを前にした忍の様子を誠人から聞いたときには、「見たかった!」と声を上げる始末。

 あさひと翼を使ったローラー作戦の成功にも盛大に拍手した。


「二人って似てないようでソックリで面白すぎる――」

 誠人と忍は、そんな美咲にじっとりと湿った視線を送っていた。


「あの、よくわからないですけど、そんなに笑い転げることですか?」

「だってぇ……」


 ヒィヒィと苦しそうな呼吸を押さえてから、美咲は続けた。


「とりあえず、万事うまくいって良かったじゃない!」

 一人でパチパチパチと愉快げに手を叩く。


 前に翼からも「似ていないようで似ている」と言われたことがあるが、この暴走気味なカリスマ男と、どのあたりが似ているのか、誰かきちんと言語化してほしい。


「えぇ。ついでに言うと、トラストリーへ漏洩問題の責問を問うつもりもありません」

「うっ……」


「わかっていますよね。一応、あなた方にも責任はあるわけです」

「忍ちゃんの言い分もわかるけど、いくらなんでも不可抗力よ」

「はい。ですから、連絡したように――」


 言い募る忍を止めようと、美咲は両手を開いて前に出した。長い指がピンと立っている。


「さすがにね、すぐに一般流通やロイヤリティ契約への変更にイエスは出せないわ。

 というか、このアロマバームのシリーズは、トラストリーとしては初の試み。

 次の企画内容も決まってないし、資宝館からの売上は、ある意味で怪我の功名みたいなところがあるじゃない」


「……」


 忍はいったん引き下がるような姿勢を見せた。隣に座る誠人に、ゆっくりと顔を向ける。


「誠人くんの企画次第、ということですね」

「なっ…そ、そんな責任重大なことを俺に求めないでください!」


「あら、そうでもないわよ。

 このインフルエンサーコラボ以上か、同等の反響が見込める商品企画なら、ぜんぜん交渉の余地はあり。

 うちだって、芸能人を起用して一般流通させてるブランドだってあるしね」


 あっけらかんと言ってのけるが、誠人にはそう簡単に思い浮かぶよしもなかった。

 喉で声にならない唸り声を鳴らしながら、おもむろに今回のカタログを手に取った。


【恋のゆらぎ】

 芽衣の初来店のときに調香した香り。

 ただ、イランイランのエキゾチックな香りが強くならないよう、フローラルで甘い方向性に、全体のバランスを調整した。


【きょうの第一歩】

 これも、芽衣のための調香。

 ペパーミントを使って、自立したい女性を表現したものを、ハーバル系と柑橘系を中心にまとめたさわやかなブレンドになっている。


【親猫のおまもり】

 記念すべき初出勤、市川みずほの調香を元に、癒しを感じつつ前向きになれるようなレシピ。

 やや落ち着いた香りに片寄っていたため、柑橘系にはベルガモットのほかに、レモンを追加して調和を取った。


 ノートと呼ばれる香りの持続性を意識して、どれも来店時に調香したものとは少しずつブレンドは変わっている。

 ネーミングは、ポエミーな忍に任せた。開発経緯や香りや作用の特徴なんかの説明も、忍と資宝館の担当者ですり合わせてもらった。


 カタログを穴が開くほど凝視する誠人の顔は、梅干しのようにくしゃくしゃに歪んでいった。


「そう言われても、すぐには思い浮かびません。

 この三種類だって、最初は特定のひとを対象に作ったブレンドなんですから」


「そういえば……」


 忍は、ふいに遠いどこかを見つめるように呟いた。


「最初の質問に答えてもらっていなかったですね」


「最初の質問?」


 誠人はカタログを下ろして、顔を上げた。


「はい。私の香りの印象です」

「あ……」

「誠人くん自身が使っていたバームの調香も教えてもらっていません」


 言っていなかっただろうか。たしかあのときは、自分のお気に入りなんて恥ずかしかったから、調香したこととアロマに関するあれやこれやでけむに巻いて、核心となる香りについてははぐらかした。


 そして、この男を初めて見たときに受けた鮮烈な印象。それは、絶対に言っていない。


「私の香りについては、次回来店時に教えてもらう約束でしたが、何度も足を運んでいるというのに……」

「そ、それは忍さんが勝手にそう言って会員証押しつけてきただけで……!」

「へぇ。気になる!

 誠人くんと忍ちゃん、二人って、どんな香りなの?」

「…………」


 美咲まで加勢してきて、誠人は腹の底から頬まで熱くなるのを覚えた。一方で、足の先は冷たくなっていく。肩がすぼまり、視線があちらこちらに飛んで定まらない。


「一向に教えてくれませんね」


 忍はわざと悲しそうに肩を落とした。「残念だ」と訴えれば、誠人が白旗を上げるとでも思っているのだろう。誠人が押しに弱いのは、そのとおりなのだが。


 忍も美咲も、じっと誠人の答えを待っている。

 意地を張っても、根負けするのは目に見えていた。


「……ットー」


 蚊の鳴くような声で、誠人は答えた。忍と美咲は身を乗り出して、聞き直そうとする。


「だから、忍さんはローズオットーです!

 一ミリリットルで一万円する薔薇の最高峰。

 ものすっごい大量の薔薇を使って、ほんの一滴しか採れない超贅沢な、精油の女王です!」


 いっそ、どうとでもなれ、と誠人はやけになって声を張り上げた。男性なのに薔薇の女王と言われても、嬉しくないだろうからと黙っていたのに。


「……ば、薔薇…女王…」


 案の定、忍は虚を突かれて、どう反応していいかわからないような顔をしている。


「ぶはっ!」


 一方の美咲はというと、盛大に吹き出していた。


「薔薇。最高峰。女王。わかる~!

 忍ちゃんってまさにそういう感じ!!」


 パンッ、パンッと小気味よく手まで叩いている。

 忍はギリリと強く握った拳で口元まで覆って、上半身を縮めるように俯いてしまった。背中がギュッと強張っている。


「イメージはそうですよ。

 でも、忍さんも嫌がるだろうと思って、俺なりに気遣ってたんですからね!」


 忍は態勢を変えないまま、下から誠人をめ上げた。琥珀色の淡い瞳が、鋭利な刃物のように鈍く光っている。

 榊原に向けたときのように、ゾッとするほど怖い。だが、目元から下は……。


「顔、赤くなってません?」


 言うと、パッと目を逸らした。


「……まさか、この歳になってまで…」

 などと、もごもご言っている。


「あぁ。小さい頃は女の子に間違えられたんでしたっけ?」


 またすかさず睨んできた。今度は黒目だけを動かして、顔は伏せたままのキツく絞られた視線で。


「……」


 さすがに誠人も閉口してしまう。

 だというのに、美咲は小さく丸まった背中を楽しげにバシバシと叩いた。


「いいじゃない。女の子はローズって大好きだもの。

 モテる男ってことよ」


 この人は本当に怖いもの知らずなのではないだろうか。

 そんなことを考えていると、美咲の矛先は誠人に向けられた。


「で、誠人くんが使ってたバームっていうのは?」

「え、っと……」


 この忍の反応のあととなると、いろいろな意味で言いづらい。自分を暴露するようでもあり、ローズオットーと比べると、だいぶ地味でお手頃価格の精油ということもあり……。


 テーブルや床に視線を彷徨わせていると、冷たい視線を首筋に感じた。見なくても忍が「言え」と言っているのがわかる。


「誠人くんのあの香りは……」


 やや険のある声が、地の底から聞こえてくる。


「不純物の雑味のない、とてもいい香りがしました。それこそ、触りたくなるような上質な香りです」


「わお!いいじゃない!」


 誠人は、また血が頬まで昇って来て、熱くなるのを感じた。これは、こちらを赤面させようという反論だろうか。チラリ、と盗み見ると、唇の片端を吊り上げて不敵に笑っていた。


(……子どものケンカじゃないんだから!)


 心の中で毒づきつつも、忍だけでも厄介なのに、美咲もいたら逃げ道なんてあり得ないのはわかっていた。それでも、やはり羞恥心というのは拭いきれない。誠人が口を割ったのは、ゆうに数分は経過していた頃だった。


 美咲はタブレットで精油の名前を検索すると、はしゃいだテンションを収束させていき、感心したようにゆっくりと息を吸った。


「……へぇ、面白いわね」


 その口調にはふざけた様子が一切なく、仕事人としての意志が内包されているようだった。


 【サイプレス】

 スッと澄んだ静謐な森林浴を思わせる香り。

 心の変化に寄り添い、感情を開放してくれるバランサーとしての作用がある。


 調香にあたっては、落ち着きつつもスッキリとした香りに仕上げてくれることが多い。

 男性でも使いやすく、誠人としても重宝している精油だ。


 美咲は、忍を、それから誠人の顔を交互に見据えて、

これ、いい企画になるわ」

 と凛と胸を張った。

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