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香中忍のサロンと調香師の観察  作者: 水野沙紀
【第4章】サイプレスを封じた青年
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9-忍ばせていたチェックメイト

「私が誠人くんにアルバイトを持ちかけたのは、最初から共同開発を見越していたからでした」

「……え」

 誠人は視線を忍に切り替えた。


「あなたが話してくれたアロマの話は非常に興味深かった。

 私の知識は、薬剤に関するものなので、一人では限界があります。

 そこにアロマを加えたら、よりよい製品ができると思ったのです」


 誠人は、なんと返していいかわからなかった。


 当初は調香の不定期アルバイトだった。いつの間にか探偵やスパイみたいなこともさせられたけど、最初から製品開発なんて、いったい何手先を見ていたというのだ。


「最初から共同開発を持ちかけるには、あなたが信頼に足る人物かもわかりません。

 あなたからしても、ほとんど面識のない相手から言われて、すぐにイエスと答えるとは思いませんでした」


 たしかにその通りだ。最初から商品開発なんて言われても、「突然すぎて意味がわからない」と、二度とこのサロンに足を運ぶことはなかっただろう。


「……ですが、危うくあなたが大切にしてきたものを、奪い取られるところでした。

 私が巻き込んだばかりに……。

 申し訳なく思っています」


「そ、そんな――」


 忍の殊勝な態度に、誠人は背もたれから体を起こした。


「でも、忍さんが取り返してくれたんじゃないですか。

 それに、俺の趣味が、ひとの役に立つなんて、いままで考えたこともなかったです」


「そこだけは、未だに理解に苦しむところです」

 忍は陶磁器のような額に、しわを寄せた。


「はい?」


「これまで何度もお伝えしていると思いますが、あなたは自分が考えているよりも、ずっと素晴らしい才能を持っています。

 どうしてそれを、自分で認めてあげられないのですか?」


「そう言われても……」


 あの姉を見ていたら、自分が持っているものなん些細なものだし、いまだって、どこにだっている普通の会社員でしかない。


「では、レシピの件が解決して、どんな気持ちですか?」

「……よかったなって。ホッとしました」


 問われて、しばし逡巡したが、出てきた言葉はそんな安直なものだった。

 だけど、それが素直な気持ちだ。忍は小さく何度も頷いている。


「今回は被害の当事者となりましたが、いままで誠人くんが調香した方に対して、誠人くん自身がそういった安らぎや心の平穏を与えていたのですよ」


「そ、そんな大そうなこと……」


「しています」

 張りのあるテノールボイスが、言い切った。


 誠人は、真っ直ぐに見つめてくる琥珀色の瞳を、まじまじと見つめ返した。

 そこには呆けたような自分の顔が映っているだけだった。


「少しずつ考えていきましょう」


 言うと、忍はアーモンドアイの目尻を下げて、口元を緩めた。


「……」


 褒められることが嬉しくないわけではない。だが、どうしても素直に受け止められない誠人は、視線を逸らして首の後ろをポリポリと掻いた。


「これからも、パートナーとしてよろしくお願いします」


 忍から右手が差し出される。その手を、誠人はためらいがちに見つめた。


 ただアロマを焚くだけのアルバイトだと思っていたが、色んなことに巻き込まれた。

 芽衣と翼に対する捜査。翼を更生させて、芽衣と母親の問題にも首を突っ込んで。最後は、あさひを連れて自ら資宝館へ乗り込むことにもなった。


 このまま続けていいのだろうか。


 この手を取ったら、平穏な生活から、また一歩遠ざかってしまうのではないだろうか。


 だけど……。


 誠人は、上目遣いで忍を見上げた。


 あの火事の夜に、この男に出会わなければ、いつまでも自分自身を隠し続けることになっていた。


 何層にも重なった花弁を剥いで、花芯にまで触れてきた。

 自分が、自分らしく、ひとの役に立てるのなら、それは、少しだけ誇らしいことなのではないだろうか……。


 誠人は意を決して、だが、おずおずと、その手を握った。相手は、力強く握り返してきた。


「忍さんって、カッコつけですよね」

「いつだって紳士であるべきだと考えています」


 そうだった。やけに美意識の高い男だった。


「さて。契約書の話ですが、私のほうから一つ追加した項目があります」


 話題が仕事の話に戻って、誠人は背筋を伸ばした。ずっと手でもてあそんでいた小瓶もテーブルに置く。


「現在のライセンスはGarden Therapyに帰属しますが、合意があれば、第三者への譲渡が可能です」

「え?」


 急に冷や水を浴びせられた気分だ。せっかく取り戻したというのに、また誰かに手放すことになるのか……。

 だが、忍の狙いはほかにあった。


「つまり、誠人くん自身が権利を持つことも可能なのです。

 資宝館からのロイヤリティが、そのまま誠人くんの口座に入ります。

 もちろん管理費や事務手数料として、私の取り分は何パーセントかいただきますが」


「えっと…つまり?」


 忍はここで、最も見頃を迎えたような、満開の笑顔を浮かべた。


「営業のインセンティブより、多いのでは?」


 終始、機嫌がよかった理由に、合点がいった。

 美咲を交えた話し合いのさいに、「バイト代の増額を前向きに検討する」と真剣な顔で言っていたのを思い出す。


(本気だったのか……)


 誠人は呆気に取られながら、ロイヤリティに関する項目に目を落とす。


「いち、じゅう、ひゃ…………」


 そこで読み上げるのを止めて、バッと顔を上げた。


「インセンティブより、多いですよね」


 ぬんっと前屈みになって圧をかけてくる忍に対し、

「ちょっと待て!」

 誠人は、平手を突き出して制した。


「いくらなんでも額がでかすぎる!」


 人は、自分が分不相応だと感じるものを、容易く受け入れられないものだ。


「それに、俺だって知ってますからね。急に収入上がったりすると、翌年の税金が増えるってこと!

 来年だけ税金多くて極貧生活なんてまっぴらごめんです!」


 忍は不服そうに、「知っていたか」と、口の中で小さく舌打ちした。

 だが、そう来たときの切り返しは用意していた。


「ええ。ですから、私の製品はサロン向けに開発してきましたが、誠人くんが調香する商品は、同等の規模になるよう一般流通化させましょう」


「一般流通?」

「はい。美咲を入れて、トラストリーとの契約見直しです」


 言って、忍はサンプルの小瓶をスッと誠人のほうへ差し出した。まるで逃げ場のない、チェックメイトのように。

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