8-真のレシピが光り出す
『謝罪状が届きました。Garden Therapyのライセンスも認められました。』
忍から連絡があったのは、延期発売が告知されて間もなくのことだった。いつもと違ってメッセージの最後に「。」が入っていることから、その後にも何か書こうとして消したようだ。
誠人は就業時間を終えると、一足飛びにGarden Therapy -SHINOBU-へと向かった。
背中越しに、協力してくれたあさひと翼の視線をヒシヒシと感じたが、状況がハッキリするまで口外しないほうがいいだろう。ぬか喜びさせたら申し訳ない。
珍しく«Closed»の看板が下がった扉が、誠人の到着を待ち構えているようだった。
一歩立ち止まってから、そろりとドアを開けると、
「いつもそんなふうに入っていただけると助かるのですが」
という穏やかなテノールボイスで迎えられた。隠れ家ソファから顔を出した忍は、言葉こそ嫌味なものの、機嫌はずいぶんと良さそうだ。
観葉植物のプランター越しに、開封された段ボールが見えた。
近寄って腰を屈めてみると、テーブルの上には一台のノートパソコンと、書類の束、それから直径三センチ程度の小瓶がいくつも並んでいた。
「それは?」
「資宝館の監修用サンプルです」
「え。謝罪状が届いたんじゃないんですか?」
中腰のまま、忍を見やる。忍は手でソファに座るよう促しながら答えた。
「謝罪状を送るというメールが昨日のうちに届いたんです。
そのさい、こちらの要求はすべて呑むので公にしないでほしい、ということだったので、勝手ながら話を進めました」
誠人は、よく状況が呑みこめないまま、おもむろに小瓶を手に取った。
「先方としては、契約書を交わしてそのまま製造・販売に進行したかったようですが、資宝館の製造したバームについて、うちの調香師の監修もなしに出すわけにはいかないと伝えたところ、早々に届けに来ました」
「あ……。ありがとうございます。
それはちょっと嬉しいです。さすがに自分の調香イメージと違っていたら嫌なので……」
誠人は蓋を開けないまま、サンプル用のラベルが貼られた小瓶を指のあいだでくるくると回した。
この小瓶を開けたら、どんな香りがするのだろう。
精油の仕入れ先によっても、香りは変わってくる。単に割合を同じにすればいいというものではない。
そう思うと、開けるのをためらってしまう。
忍は目尻を下げながら誠人を見つめると、パソコンの向きを、誠人にも見えるように変えた。
表示されていたのは、「甲」と「乙」で始まる、パッと見でも格式ばった文言と漢数字がずらりと並んだ文書。
誠人は思わず頬を引きつらせたが、「営業職としても、契約書は読めるようになっておいたほうがいいですよ」と苦言を呈されてしまった。
「おおまかに説明すると、ライセンスはすべてGarden Therapy -SHINOBU-に帰属します。
なので、資宝館は私たちから許可を得る、ライセンを借りて商品製造をすることになります」
ここで一度、忍は顔を上げた。
「私の開発している製品のブランド名は『Garden Therapy』なので、普段はブランドロゴが入りますが、今回はコピーライトも入ります」
「コピーライト……?」
「これです」
見せられたのは、製品イメージの容器だった。指で示された場所には「©️Garden Therapy」と記載されている。
「あぁ、見たことあります」
「はい。そして今回の契約は期間を三カ月に定め、自動更新はなしとしました。
こういったライセンス契約というのは年間単位の契約と合わせて、甲乙どちらかから契約解除の申し出がなければ自動更新となることが多いようですね。
先方から提示された契約書には、おそらくテンプレートなのでしょうが、その文言が入っていましたので、却下しました」
「却下って……大手相手によく通りましたね」
「ライセンサー……権利を持っているのは私たちです。
本来なら私たちが作った契約書を提示して、向こうはそれを呑むか呑まないかというパワーバランスです。
発売延期がかかっているからでしょうが、勝手に用意してきて、まったく厚かましい」
言いながらも、やはり機嫌がよさそうなのは早々にこちらの要求が通ったからだろうか。
「あとは、ライセンス料の割合と初回製造数、販促に伴う費用は資宝館持ち、ただし販促物は必ずGarden Therapyの確認を得ること。などが決まっています」
立て続けに言われるが、さすがにその辺りは誠人にも理解できた。
「じゃあ、Garden Therapyは持ち出しのお金なしで、販促物の確認だけすれば、収益が上がるってことですね」
「ざっくりまとめると、そういうことです」
「良い条件じゃないですか! インフルエンサーが宣伝してくれるし、販売ルートの大きい資宝館が販促物も作って、商品も売ってくれて」
靴の裏をすり減らして売上成績と戦っている営業職からすると、なんていいシステムなのだろう。
「ライセンサーというのはそういうものです」
「はぁ〜すごい世界」
誠人は羨ましい限りだ、と言わんばかりに口を大きく開けて、ソファにもたれかかった。
そんな様子を見て、忍は愉快そうに口元を緩めた。
今日はどうにも、誠人の反応をいちいち楽しんでいるようだ。
誠人のほうはというと、正直なところ契約条件なんてどうでもよかった。
だが、この結果にはまんざらではなく、何とも言えない、ふわふわした心地に包まれていた。
自分が作ったレシピ。一人ひとりと向き合って、自分が蓄えてきた知識から調香した、宝物たち。
破ってクシャクシャにポイ捨てされた脳内図鑑のページが、正しい位置に戻ってきている。それぞれのレシピが、「自分はここにいるぞ」と光の帯をなして主張しているようだ。
胸の奥がぽかぽかしてきて、自然と頬が緩み、肩の力が抜けていく。
「……よかった」
瞳を閉じて、頭をソファに預けた。
「本当に、よかった……」
情けないことに、声が震えてきた。
温かいものが、胸から喉の奥を通って、鼻のつけ根にせり上がってくる。目頭に到達するまで、ほんの数瞬、そこで渦を巻く。じわりじわりと熱くなるのを感じて、誠人は慌てて鼻をすすった。
そろりと息を吐くと、ゆっくりとまぶたを上げて、ドライフラワーの向こうにある宙をぼんやりと見上げる。
ラベンダー色の宇宙でたなびく、長い髪。
胸を張って、晴れ晴れと旅立って行った、シャープな横顔。
あんなふうには、絶対になれない。
だけど、姉のおかげで、たくさんの宝物を集めることができた。
いまこうして、取り戻すことができて、その重みをひしひしと感じる。
「忍さん」
誠人は天井を見上げたまま、声をかけた。
「はい」
「本当に、ありがとうございます……」
取り戻してくれたことも、気づかせてくれたことも。
一方の忍は、ふいに視線を落とした。愉快そうな顔が消え、陰りがさしている。
「私も、懺悔しなければいけませんね」




