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香中忍のサロンと調香師の観察  作者: 水野沙紀
【第4章】サイプレスを封じた青年
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7-超越的な駆け引き

 忍の予想どおり、期日までに榊原からの連絡はなかった。

 弁護士を通して Garden(ガーデン) Therapy(セラピー) -SHINOBU(しのぶ)-にて協議の場が設けられることになり、誠人はまたも有休を使うはめになる。

 会社では「やる気あるのに、有休多くないか~」と茶々を入れられたが、忍譲りの「権利です」を使ってあしらった。もちろん本業だってやる気はあるし、成果は出しているので問題はない。


 当日、榊原の姿はなく、壮年の二人の男――企画営業部の部長と、法務部の人間が厳めしい顔をして現れた。部長が保坂で、法務部の担当者が前田と名乗った。


 毅然とした態度からは、争う気配が見受けられた。


 Garden Therapy側も、弁護士に同席してもらっている。やや丸みを帯びた好々爺のような渡辺弁護士。人好きのする穏やかそうな顔だが、その瞳は歴戦の猛者を思わせる光を帯びていた。


 誠人は人数分のお水を出してから、ソファに着いた。客ではないので、ドリンクオーダーは取っていない。


「私たちとしましては――」

 法務部の前田が口火を切ったところで、忍がスッと平手を前に差し出して言葉を遮った。

「まずは、榊原さんについてお聞きしてもよろしいでしょうか」

 静かなテノールボイスが、カサリとドライフラワーを揺らした。


 壮年の男たちは、忍の一切動じない姿に面食らったのか、喉を詰まらせる。保坂と前田は顔を見合わせると、企画営業部の保坂のほうが話し出した。


「榊原は現在、謹慎中となっております」

 その声は重々しく、言外に含みがあることを匂わせていた。

「懲戒免職にしたくても、会社としてはしづらいといったところでしょうか」

 忍の言葉に、保坂の口元にぎゅっと力が入る。

「おっしゃるとおりです。謹慎を解く予定はありませんので、実質的な自主退職勧告ではあります」

 忍は納得したように、背もたれに悠然ともたれかかった。

「まあ、妥当でしょうね」


 前田も保坂も居心地悪そうに身をよじる。場の支配者は、忍となった。

 隣に座る誠人は、どうしてもヒヤヒヤして肩が強張ってしまう。

 あの榊原の行く末も気になるところだ。


 だが、なによりも、日本有数の大手企業のお偉いさんを相手取っているというのに、一切動じない忍の圧倒的なふてぶてしさに、五臓六腑が持っていかれる。


「私たちの要求は申し立ての通りです。

 榊原氏が私たちのレシピを盗用したのは事実ですが、事を荒立てるつもりはありません」

「しかしですね、そのレシピを盗用したという事実はあるのですか?」

「社内調査を怠っているのですか?」


 忍は間髪入れず変化球で返した。


「私たちGarden Therapyとトラストリーが企画を進行していた。

 それを榊原氏は閲覧可能だった。

 その、その企画を手土産に転職した。

 そっくりそのまま使うというのは、あまりにも愚かではありますが――」

「香中さん、そのくらいで……」


 弁護士の渡辺がやんわりと、突き刺すような忍をいさめる。

 忍は言い足りなさそうだったが、鼻からふーっと息を吐いて、専門家に場を譲ることにした。

 渡辺は胸ポケットからメガネを取り出し、ひょいとかけると書類を顔の前に持っていく。


「ええとですね。

 資宝館さんもご承知かと思いますが、原告側の申し立てとしては、たいへん寛容なものとなっております。

 Garden Therapyの利権だと認め、ライセンス使用料を支払うこと。

 独占契約をしないこと。

 その二点です」


「ですが、私たちにも資宝館のブランドイメージというものがあります。他社でも同じ製品を製造されるとなると――」


「それを壊したのは、あなたたちの判断の甘さではないですか」

 矢継ぎ早に反論する忍に、

「香中さん」

 と、渡辺は待ったをかける。


 そして、忍が言い出さないうちにと、話を続けた。


「利権をお認めいただけない場合は、民事に移る準備もできております。

 それに関して、そちらのご意見は?」


 またも、保坂と前田は顔を見合わせる。

 法務部の前田は、ゆっくりと息を吸って胸を張った。


「……訴訟となると、経費も期間もかかります。

 私たちは専門部署がありますが、原告はどのようにお考えですか?」


 その問いかけは、渡辺に向けたものだったが、忍が鼻で笑った。

 全員が全員、忍に視線を送る。


「負け戦になるとわかって、私たちに取り下げ要求をかけるのですか?」

「しかし、失礼ながら個人サロンでいらっしゃいますよね。

 顧客を失うリスクと天秤にかけても、そこまでするメリットは……」


 忍は最後まで聞く気などないらしく、お決まりの「嘆かわしい」と言わんばかりに、ゆるゆると首を振った。

 そして二人を順番に真っ直ぐと見据えると、その整った顔の口角をニッと吊り上げた。


 ぶわり――と芳醇な香りがこの隠れ家内に充填され、この場にいる人間たちをからめとっていく。

 こうなったら、忍の独壇場だ。


「ここはGarden Therapy。選ばれた方のみが足を踏み入れることができる花園です。

 この時代にサイトもなければ、SNSもない。そんな方々が、当サロンを足蹴にするとでも?」

「…………」

「…………」


 壮年の男二人は、言葉を失ってしまった。呆然と忍に見入っている。


「私は守りたいだけです。

 自分の才能を自覚していない調香師と、彼がお客さま一人ひとりに向き合って紐解いた、誰にも打ち明けられなかった辛苦のストーリーを」


 内容なんて関係ない。忍の他者を寄せ付けない圧倒的な出で立ちに、反論できる者など誰一人いなかった。


 実際のところ、資宝館側は取り下げ要求するしか退路はないのだ。

 訴訟まで進めば、メディアが動くことになり、インフルエンサーとのコラボを掲げているぶん、ネット上の炎上は避けられず、テレビや新聞、週刊誌でも取り沙汰される可能性だってある。


 たとえGarden Therapyが個人サロンだとしても、「訴訟された」という事実はどう転ぶかわからない。

 悲観的な末路としては、株価の下落も起こり得る。

 トラストリーが争わないと決めているぶん、まだ温情がある申し立てなのだ。


「原告の申し立ては承知しました。しかし、この場で決めることはできかねます」

 前田はハンカチで額を拭うと、引きつった声でそう言った。渡辺はこっくりと頷いた。

「ええ、もちろん。

 御社内で慎重にご判断いただいたほうがいいでしょう。

 ですが、発売時期が発表されていますので、早々に対応していただいたほうが賢明だということは、お伝えしておきます」


 保坂も前田も、背中を丸めてGarden Therapyを後にした。

 ここに来たときの居丈高な様子はない。まるで、花が萎れて下を向いて垂れ下がってしまったかのように……。


「渡辺先生、ありがとうございました」

 忍が頭を下げると、渡辺はメガネを外して胸ポケットにしまった。

「いえいえ。お疲れさまです。

 ですが、香中さんももう少し落ち着いてくださいよ」


 ほほほ、と笑う渡辺はずいぶんとご機嫌のようだ。


「といっても、香中さんが勝てない勝負に出るわけないですからね。

 こちらは気楽なものですよ」

 渡辺はグラスに残っていた水をコクコクと飲み干した。


「あの、お二人は、長いんですか?」

 協議中に一言も発せなかった誠人が、おずおずと話に入る。


「このサロンの開業時から担当しております。

 香中さんは、重箱の隅をつつくような徹底した性格ですからね。

 こちらとしても、法律を勉強せずに丸投げしてくるような経営者や企業担当者と違ってありがたいです」


「そういうものなんですか……」

 誠人にはピンと来なかったが、重箱の隅をつつく方法について言及されませんように、と祈った。

 いや、もしかしたら渡辺は知っていて見過ごしているのかもしれない。

「はい。そういうものです。

 尾花さんも、なにか困ったことがあったら声をかけてくださいね」

「うーん……一般市民として、弁護士と警察だけには、お世話になりたくないですけどね」

 苦笑する誠人に、渡辺はまたおおらかに「ほほほ。人生わからないものですよ」と笑って頷いた。


 それから一週間ほどして、インフルエンサーとのコラボ企画の発売延期が発表された。

 ネットの海に生まれた小さな波紋は、どこへ向かうか――

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