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香中忍のサロンと調香師の観察  作者: 水野沙紀
【第4章】サイプレスを封じた青年
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6-決戦の場は隠れ家サロン

 今日のGarden(ガーデン) Therapy(セラピー) -SHINOBU(しのぶ)-はやけに薬剤の匂いが鼻につく。


 有給を取って平日に出向いた誠人はそう思った。近くの百円ショップでスプレーボトルを買って、気ままに調香した香りをサロン内に噴射した。


 【本日の調香:グレープフルーツ、クラリセージ、サンダルウッド】

 酸味と柔らかな甘い香りを持つグレープフルーツ。クラリセージはスッキリとした落ち着きがあり、自律神経を整えてくれる。サンダウッドは瞑想時にも用いられる、オリエンタルで呼吸を深くしてくれる香りだ。


「このブレンドは誠人くんのお気に入りですか?」

 忍に問われて、スプレーボトル片手に誠人はフロアで手を止める。

「いえ。甘すぎないのはいいですが、俺はもっとウッディ系が好きですね」

「では、これは?」

「……心を健やかに開放して、浄化してくれる作用、というイメージです」


 少し強張りつつ微笑む誠人に、忍は安心させようとゆっくり頷いた。


「大丈夫です。まずはスタッフルームに控えていてください」

「ありがとうございます」


 誠人が下がるのと同時に、スタッフルームで電話が鳴った。

 来訪者が到着した報せだろう。

 いつもと変わらぬ様子で応対する忍を横目に、誠人はごくりと生唾を飲み込んだ。


 ここまで突っ走ってしまったけれど、これはだまし討ちではないのだろうか。

 相手がブチギレたら、名誉棄損かなにかで訴えられたら。

 だけど、きちんと法に触れない手順は踏んだはずだ。

 録音した音声だって、今度は誠人の情報漏洩になりかねないので、忍からの「聞かせてください」という要望は断固として跳ねのけた。


「うわぁ。すごいおしゃれなサロンですね」

 何度も再生した声が、壁の向こうから聞こえてくる。

「ありがとうございます」

 名刺交換のあいさつ、ソファに腰かけたきしみ音。誠人は息をひそめ、ひたすら耳を傾けた。

「さっそくですが、弊社で開発したバームについてご説明させていただき……」

「その件なのですが、先にこちらをご覧いただけますか」

 流れでは、忍がタブレットのカルテを見せたはずだ。


 榊原のほんの小さな「あ……」と声にならないような呻きが、ドライフラワーのすき間をぬってサロン内に重く落ちる。張りつめた緊張感が、スタッフルームにまで押し寄せてくる。


「当店は調香師を雇っておりまして、お客さまのお悩みに合わせてアロマをブレンドしております。

 調香レシピと、私がつけたネーミングは、日付、施術内容、写真と合わせて記録しております。

 なぜ、御社がまったく同じ商品を開発しているのでしょう?」

「…………」

「榊原さんはおいくつでしたでしょうか?」

「……え?」

「私も、トラストリーの元社員です。

 私の顔に覚えがないということは、最初は本社勤務ではなかったようですね」

 忍は自分のペースで、淡々とシナリオを進めていく。


 たしかに、顔を合わせたことがあるなら、この国境を超えて美形と称えられる一級品の忍の顔は忘れられないだろう。


「えっと……」

 絶句していた榊原だが、なんとか持ち直そうとしているようだ。


「申し訳ありません。わたしには、なんのことかわかりかねます。

 おっしゃるように、調香レシピや名前は被ってしまいましたが、だからといって偶然ということもあり得ますよね?」

「あなたはトラストリーで企画営業部に在籍していたようですね。

 当サロンを担当している三好美咲から聞きました。企画営業部の代表メールを、あなたも閲覧できたことを」

「……」

「それと、この企画を持って資宝館の面接に臨んだようですね」

「なんでそれを!?」

「……ふっ」

 言質を取ったとばかりに、忍は不敵に笑った。


 おそらく、気高く咲き誇る薔薇のように、他者を寄せ付けない悠然とした構えを取っているのだろう。


「誠人くん」

 大きくもないテノールボイスが、静まりかえったサロン内に響き渡る。


 誠人は体を反らし、詰めていた息をハーッと一気に吐き出すと、ぐっと腹の下に力を入れて、スタッフルームから歩み出た。

 床板を踏みしめる度に、反響がみぞおちまでせり上がる。


 誠人の姿を目にした途端、榊原の顔がみるみると青ざめて歪み、目の端が切れそうなほど見開かれた。

「あ。お、おま……あなたは……」

「お世話になっております。調香師の尾花誠人です」


 榊原の視線は、顔ごと忍と誠人の顔を反復横跳びし、状況がわからないといった様子で額に汗を浮かべていた。


「だって、先日、うちに営業来てた……」

「はい。アロマ男子だってお話させていただきましたね。

 たまに、このサロンで副業調香師をしています」


 誠人は努めて営業用の笑顔を作った。


 榊原は文句の一つや二つ言いたかろうが、酸欠状態の金魚のように口をパクパクさせるしかなかった。


「な、なにが……目的ですか……」

 辛うじて出た言葉が、それだった。先ほどから、まったく営業マンらしからぬ態度だ。


「おびき出されたことはご理解いただいたようですね」

 榊原の喉仏が大きく上下する。獰猛な獣に狙われた小動物が、なんとか抗おうと警戒しているようだ。


「私としては、商品自体を取り下げていただきたいのですが――」

「そんなの、いまさら無理に決まってるだろ!」

 忍の言葉を遮って、榊原が声を荒らげた。


 あぁ。ごてごてとした香りが剥がれた。毒気だらけではないか。


「もう告知してるし、インフルエンサーを起用してるんだぞ。

 どんだけ炎上するか、わかったもんじゃないだろ!」


 どんどん熱くなる榊原に対して、忍の身の回りの温度は急速に下がっていった。

 しばしば氷のように冷めた視線を見せることはあるが、いまはまるで、氷を削って作られた鋭利なナイフのような眼光だ。


「話を遮らないでいただきたい」

 地を這うような忍の声に、誠人まで背筋にゾクリとした震えを覚えた。

「……」

「無論、そんなことをしても、当サロンも、御社も、そしてトラストリーにも野次が飛ぶでしょう。人気商売をしているインフルエンサーの方にご迷惑をおかけするのも本意ではありません。

 しかし――」


 そこで言葉を切って、テーブルの側で佇んでいる誠人を見上げた。

 その瞳は一変して、優しく揺れる湖面のように澄んでいた。


「彼が幼い頃から培ってきた知識や素養、センス、そしてお客さま一人ひとりに対して真っ直ぐに向き合う姿勢と観察眼。そこから生み出されたレシピ、それは彼の宝物です」


 誠人は突然の誉め言葉の羅列に虚を突かれ、どう反応したものかと目をパチパチさせるしかなかった。


 だけど、そのとおりだ。このレシピたちは、誠人の宝物なのだ。どうしてこの男は、そんなことまで見抜いていたのだろうか。


 忍はキッと榊原に向き直ると、また低い声で糾弾を再開した。

「あなたがやったことは、彼という人間を踏みにじったのです」

「…………」

 榊原は、誠人から顔を背ける。

「私としても、“彼のレシピ”を埋もれさせるのは惜しい。

 本来ならこのレシピの権利は彼にあるのですよ」

「…………」


 反論できず、榊原は押し黙ったままだ。


「私の望みとしては、きちんとレシピの利権を認めること。

 使用料を当サロン、果ては彼に支払うことです」


「そ、そんなの、俺の一存じゃ……」


「ええ、そうでしょうね」

 忍は蔑みと呆れを混ぜたような息を、鼻から吐いた。


「せっかく大手企業にキャリアアップしたというのに、実は他人のパクリだったなんて、どの面下げれば言えるのでしょうね」


 珍しく荒っぽい言葉遣いにギョッとしたのは、付き合いの長い誠人のほうだ。息を潜めて、忍を見つめる。


「トラストリーは資宝館を相手取った訴訟はしない意向のようですが、当サロンは許しておりません。

 これが呑めないのであれば、当サロンの弁護士を通して申し立てをさせていただきます」


 榊原の顔からさらに血の気が引いていく。死に化粧をしたように真っ白だ。

「べ、弁護士……」

 声が上擦っている。


「あぁ、そういえば、トラストリーにはNDA、機密保持契約がありましたね。

 就労規則に一定期間内の同業他社への転職を禁止する事項があった覚えもあります」

「そ、そんなのいちいち覚えてんのかよ。

 ていうか、そんなのある程度建前だろ。同業他社へ転職している奴なんていくらでもいるじゃないか!」

「えぇ。実際はそうでしょう。そうでなければ、世の中ヘッドハンティングなんて起こりませんからね。

 ですが、NDAにはなんと弁明しますか。

 また、日付、レシピ、ネーミング、すべて私たちのほうが先です。

 御社の人事担当者に確認を取れば、あなたの応募日、面接日程もわかるでしょう。

 すべてが明るみになれば、あなたには各方面から法律的な処罰が下るのは間違いないはずです」


 ここまで流暢に理詰めで話すのも、数カ月の付き合いのなかで初めて見る姿だった。


「…………っそぅ」

 榊原は頭を抱え込んで、ガタガタと体を震わせた。

「転職したばかりのあなたに、味方をしてくれる方がいるといいですね」


 言うと、忍は一切榊原から目を離さず立ち上がる。

 獲物を追い詰めるように足音もなく対面の席に回ると、ソファの背もたれに手をついて、覆いかぶさるように続けた。


「私としても表沙汰にはしたくありません。来週いっぱいまでに、返事をください」

 そして、榊原の鞄を取ると、彼に突きつけた。


 榊原は、しばし硬直したまま動けなかった。だが、立ち眩みのようにゆらりと体を左右させると、その反動で忍を乱暴に払いのけ、鞄をつかみ取って、逃げるように足早にサロンを後にした。


 ガチャンッ――と、反動に任せるままに、ドアが閉まる。


 誠人も誠人で、呆然と立ち尽くしていた。

 突然の大嵐に見舞われたかと思うと、あっと言う間に過ぎ去っていた。

 そんな一瞬の出来事。

 現実感がなく、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。

 たたらを踏んで、ソファに倒れ込む。


「―――ッハァ~~~~~緊張したぁ……!!」

 渇いて割れた声と一緒に、誠人は体中の空気を吐き出した。


「いい加減、このソファをベッド代わりにするのは止めてください」

 汚いようなものも見るような忍だが、その口調も雰囲気も、通常運転に戻っていた。


「そうは言いますけど、あんな脅しみたいなの、一般人には刺激が強すぎますよ。

 理詰めで論破する忍さんも初めて見たし……ぶっちゃけ、超怖かったです」

 誠人はのそりと座り直し、膝に肘をついて上体をぐったりと前に倒した。

「私も一般人です」

 ツッコミたいけど、いまはそのエネルギーが枯渇している。


「とはいえ、個人経営ですからね。法律の知識はあるに越したことはありません」

「あの、それで言うと、俺もやばくないですか?」

「何がですか?」

「“業務上知りえたことを外部に漏らしちゃいけない”。

 資宝館との打ち合わせの内容、忍さんに教えちゃいましたよ」

「証拠はありません。

 私としても、あくまで『人事担当者に確認すれば』と伝えました」

「…………」

「不服そうですね」

「これ以上グレーゾーンは渡りたくありません」

「これ以上?」


 不思議そうに小首を傾げる忍に、誠人は言っても無駄だと諦めて席を立った。二人分のコーヒーを淹れて戻ってくる。


「あいつ、来週までに来ますかね?」

 誠人は湯気の立ったコーヒーを片手に、ドアのほうを見やった。


「まず無理でしょうね」

 サラリと言って、忍はコーヒーを口に運んだ。


「入社して数カ月の人間に、社内政治的な権力はまずないでしょう。

 プレスリリースも出して、インフルエンサーとのコラボも走り出している。

 そこまでいけば、小者が一人で騒いだところで、物事は止まりません」

「小者って……」

 今日の忍は、選ぶ言葉に棘がある。


「既に弁護士には話を通してあります。

 諸々の書類が揃うのが、来週いっぱいなんです」


 その段取りのよさに、誠人はぽかんと口を開けてしまった。


「まずは“話し合い”です。

 とはいえ、彼がどうなるかは、見届けたいところですね」

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