1-ドライフラワーの海を浮上して
子どもの頃に教室中を席巻したカードゲーム。みんな夢中になって集めたし、知識も披露しあった。なんでも吸収する柔らかな脳みそは、算数の公式よりも、カードの種類をどれだけ覚えられるかに、その大部分を割かれていた。
輪の中にはちゃんと入っていた。だけど、一番になることはなかったし、それでいいと思っていた。自分の脳は、カードよりもアロマの知識をどんどん抽出して、蓄えていったからだ。
脳内図鑑には、際限などなかった。
誰に見せることもない、好き勝手に集めた、自分だけのコレクション。
いつからか、ひとを見ると香りを連想してしまうようになった。
それでも、自分の香りなんて考えたことはなかったし、自分を香りに例えようなんて発想すら浮かばなかった。
自分探しにも興味はない。そもそも特別なものも持ち合わせていない。
ただ、好きだから増えていっただけだった。
その世界に一冊しかない図鑑のページが、誰かの手によって破り取られた。
そのときになって、どれだけ尊いものだったのか、初めて気づかされた。
心の奥をジリジリと焦がす火種は次第に大きくなり、異物の燃える醜悪な匂いが混ざり合い、濁りきった煙が体を覆い尽くした。
あの煤けた火事の夜も、酷い匂いだった。
溶かされた不燃物のせいで、幾層にも重なった異臭が粘膜にこびりついてきたのは忘れられない。
そこから拾い上げてくれた男がいた。
その男にバレた、サイプレスを隠したオリジナルバームのせいで、日常が大きく変わってしまったのは事実だ。
はらり、はらりと、花びらが散るように、隠していた自分がめくられていった。
頑なに潜ませてきたせいか、自分で感じることも、見ることもできなくなっていた柔らかい部分が、形を成すようになった。
とはいえ、長年にわたって忍ばせた嗜好を表に出すのは、やっぱりまだまだ抵抗がある。
ましてや、《――――》なんて、恥ずかしすぎて目も当てられない。
だから何度でも言ってやる。
どうしてこうなった!
◇
夜。二十一時を過ぎても、Garden Therapy -SHINOBU-の灯りは消えなかった。
ドライフラワーに囲まれた隠れ家ソファで、三者三様に硬い顔を突き合わせている。
淹れたまますっかり冷めきったコーヒーは一口も減っていない。
誰かのちょっとした発言で、限界まで膨らんだ風船が一気に破裂してしまいそうなほど、場は張りつめていた。
誠人に至っては、美咲に渡されたタブレットから顔を上げようともしない。
「何度も言ってるでしょ。うちに限って情報漏洩はあり得ない。
あなたも元同僚なんだから、どれだけセキュリティーに厳しいかわかってるわよね」
疲れ果てた弱い声で、美咲は訴える。
「だからといって、これは明らかに誠人くんのレシピです。
それがどうして資宝館から発売されるのですか」
低く絞られた、だが確実に責めるような忍の声が、そんな彼女に迫る。
「それがわからないって言ってるじゃない」
美咲は根負けしそうなほどぐったりしている。
そんな二人のやり取りを、誠人はスクリーン越しに見ているような気分だった。どこか遠いところで交わされる他人事。スクリーンには自分の中にある脳内図鑑の破かれたページだけがぐしゃぐしゃと丸まって捨てられている。
「メールの宛先を間違ったという可能性は?」
「ない。あったとしても、倫理的にも法律的にも丸パクリはあり得ないでしょう。
そっと送った本人に『宛先が間違ってました。中身は見てません。メール削除しておきますね』って連絡するのが大人のルールよ」
「では、メール送信のさいに、誤った可能性もあるのですね」
詰問するような言い方に、押されっぱなしだった美咲は鼻の付け根にしわを寄せ、肩をいからせた。小刻みに体を震わせ、勢い任せにソファから立ち上がる。
「な……NO way! I'd never make a mistake like that!」
(なんですって!私がそんなミスするわけないじゃない!)
「Then how could this have happened?」
(なら、どうしてこんなことが起きたのですか?)
急に飛び込んできた英語に、ようやく夢から醒めたように、誠人の目の前は2人のやり取りに切り替わった。
「ちょ、ちょっと……!」
本気で火花を散らし始めた二人を制止しようと、タブレットをテーブルに放って、両手を掲げてストップをかける。
「英語じゃ俺にはわかりませんよ。落ち着いてください」
いままでの会話もまったく内容は頭に入ってなかったけれど。
「……」
「……」
視線だけはバチバチとぶつけ合いながら、二人はぐっと言葉を呑み込んだ。
「Sorry…えーっと、ごめんなさい」
「さすがにソーリーくらいはわかります」
バツが悪そうな美咲に、覇気のない声音でそう返すと、ぼんやりしていた頭が少しだけ動き始めた。
「資宝館の三種のバームって、たしかにGarden Therapyの企画と丸被りですけど、だったら先方のことを訴えたりとか……」
本筋に戻そうとする誠人に、美咲は硬く目を閉じると、口を真一文字に引き結んだ。険しい表情が浮かんではいるが、仕事人らしい落ち着いた様子を取り戻していた。
「二人には悪いけど、それはできないわ」
「え、なんで?だって、先に企画してたって記録があれば……」
「そういう問題じゃないのよ」
美咲は長い手足をゆるりと組んだ。
「コストですね」
忌々しそうな形相で、忍の声が低くなる。
「コスト?」
「……うちのメインの収益は、製薬と自社ブランド製品なの。
外部からの発注も手掛けているし、忍ちゃんの商品の売上は好調だけど、うちの総売上の中では微々たるものよ。
それなのに、業界ナンバーワンを相手取った訴訟なんて、コストも期間もかかりすぎるし、ネガティブキャンペーンにもなりかねない。
だったら新しい製品を作ったほうが、よほど会社の利益になる」
「そ、そんな――!」
今度は誠人が腰を上げる番だった。また、目の前に引き裂かれたページの映像が浮かんでくる。
「誠人くん……」
忍にいさめられ、誠人は思考の渦におぼれる前に、おずおずと座り直した。
「じゃあ、この商品は……」
「残念だけど、お蔵入り」
美咲は痛みをこらえるような顔で、そう絞り出した。
誠人はそのままソファに沈んでしまいそうな体の重さを覚えた。
海中で上も下もわからず漂っているような無力感が押し寄せてくる。
いままでGarden Therapyで調香したレシピは、そのときの会話でブレンドした場当たり的なレシピでしかない。それでも、一人ひとりと向き合って作った一点ものだ。
そういえば、教室でクラスメイトがレアカードを披露したとき、ガキ大将が横取りしようとして、ひと騒動になった記憶がある。あの子は泣きながら叫んでいた。
同じだ。子どもの頃からこっそりと集めてきた宝物が、急に出てきた手にかっさらわれていく。
どうしたら、取り戻せるのだろう。
黙って、遠くから見つめることしかできないのだろうか。
体中の筋肉が強張り、表情筋までせりあがってきてピクピクする。鼻の穴が膨らみ、目尻にきついしわが寄った。
三人のあいだに、水底に吸い込まれるような沈黙が押し寄せてくる。
そんななかで、忍の琥珀色の瞳だけは誠人を真正面から捉えていた。
「誠人くんは、どうしたいですか?」
「へ?」
ドライフラワーのしじまに、テノールボイスが柔らかな波紋を立てる。
顔を向けると、珍しく前傾姿勢になって、誠人に向き合っている。
「これは間違いなく、誠人くんが考案したレシピです。
無断使用なんて、許されることではありません」
視線が、誠人に集中する。
自分よりもずっと大人の二人に見つめられ、先生に指導を受ける生徒に返ったような気分だ。答えがないのに、答えを求めてくる大人。
誠人はテーブルの天板に視線を逃がした。体も思考も、ますます沈んでいく。
腹立たしさも、悔しさも、悲しさも、やるせなさだって、胸の中ではぐるぐると渦を巻いている。だからといって……。
「何ができるっていうんですか」
いち個人に、何ができるというのだ。美咲の会社は組織としての力を持っている。それでも白旗を上げたというのに。
「俺だって……」
奥歯を噛みしめながら苦々しく漏らしたけれど、その先に続く言葉は見つからなかった。
だというのに、なぜか忍は安堵したように小さく吐息を漏らすと、上体を正した。
いつになく薄暗い表情で、片方の口角を吊り上げて、言う。
「Garden Therapyは、心に安らぎを与える場。
スタッフを苦しめること倫理に反します」
いつも法律スレスレのグレーを攻めるその口から発される“倫理”。忍の意志も行動も、決定を下すのは己だと貫き通している。
「なので――」
告げられた内容に、空気は一変した。大波が、濁りも澱みもさらっていく。そのあとの凪いだ波は、陽光を受け止めていた。
ようやく、息継ぎができた。
美咲は興奮して両手をハンズアップし、誠人は天井を仰いだ。
二つの思考が、囁きかける。一つは、取り返すんだと渇望する声。
もう一つは……。
(また探偵ごっこの始まりかぁ……)
日常を生きる、普段の自分の声だ。いつも忍のペースに巻き込まれる、諦めにも似た脱力感。
それでも今回は、他人のお悩み解決ではない。誠人と忍、二人の戦いだ。
踏ん張るしか、ないのかもしれない。




