エピローグ-盗まれたイランイラン
「終わったぁ~!」
恵の施術で、本日の副業調香師は店じまい。
フロアの真ん中で、誠人は思いっきり伸びをした。全身にすがすがしい酸素が染み渡っていく。
「今日は朝からありがとうございました。長丁場になっちゃいましたね」
「いえ。誠人くんの狙い通りになったようでよかったです」
誠人の狙い。
それは、佐々木総合病院に出向く翼に、恵と遭遇したさいに好印象を与えられるような身だしなみに仕立てあげること。
恵の次回Garden Therapy来店時に、芽衣が選んだ“自立したい女性”の香りを焚いて、彼女の心の変化について話題にできればと考えていたが、当日に施術予定があったのは運がよかった。
翼のヘアセットに、この香りのバームを使ったのはオプションのようなものだった。
とはいえ、背中を押したかったのは本心だし、バッチリ院内で顔を合わせてくれたようだ。
「まあ、芽衣さんが病院に出向けば、スタッフが気づいて、佐々木さまを呼ぶのは見えてましたがね」
「え。そういうものですか?」
「はい。娘さん……というか、院長のお孫さんが来たら、あっという間に本人に伝わりますよ」
忍から聞かされると、がっくりと脱力してしまう。誠人としては、恵に会えるかどうかは運任せだと思っていたのに。
「さて。誠人くん」
がしっと、忍に腕を掴まれた。
「え、あの……」
問答無用で、施術台まで連れて行かれ、器用に回した椅子の座面に、乱暴に突き飛ばされる。
尻もちをついた誠人がバランスを取ろうとオロオロしているあいだに、椅子が長身の男に合わせて上げられてしまう。
「あなたも、そろそろカットが必要ですね」
「いや、いやいやいや、忍さんもお疲れでしょうから」
「十分カットに行かれるよりは、“いま”、“ここで”、整えましょう」
肩に置かれた両手から、そして、鏡越しの眼差しから、反論できない圧を感じる。
「……はい」
項垂れた誠人をよそに、忍は手早く櫛とハサミを取り出した。
なんとなく反発したくなって、
「あの、俺にはオーダーとか聞かないんですか?」
と問いかけるが……
「『邪魔にならないように短くしてください』以外であれば、お聞きしましょう。
カットしなくても、この長さであればアイロンを使えばいろいろとアレンジはできますが」
「いえ、けっこうです! 忍さんの理想の形でお願いします!」
「承りました」
結局のところ、この無駄に美意識の高い男に反論する術など、持ち合わせていなかった。
任せるままに目を閉じると、とろんとした眠気が襲ってきた。
ここ数カ月、芽衣を中心とした香りが、さまざまに思い出される。
可愛い後輩のマンダリン。合成香料の核にあったオレンジスイート。“恋のゆらぎ”を演出したゼラニウム、レモン、イランイラン。母親のアグレッシブなブラックペッパー。そして、スッと伸びゆく、ペパーミント。
「あいつ、ずいぶん成長したなぁ……」
ぼんやりとしたまどろみの中をたゆたいながら、ただ、そんな言葉が誠人から零れ落ちた。
「……」
忍は柔らかな髪に櫛とハサミを走らせるだけで、何も答えない。
「山本の奴、前科持ちになってたかもしれないけど、なんとかなってよかったよなぁ。
お母さんも無事に退院できたみたいだし」
「……そうですね。
それは、誠人くんのおかげですよ」
「いやいや、あいつが頑張ったからですよ」
無意識にそう返した誠に、忍は小さくため息を漏らす。
「あなたは、相変わらず自己評価が低いままなのですね。
翼くんも、佐々木母娘も、そしてあさひさんも、誠人くんが奔走しなければ、ずっと変わらず誰にも言えない不安や苛立ちを抱えたまま、日々を過ごしていたはずです。
それを変えたのは、誠人くんです」
「そんな大したことしてないですって」
髪を触られる心地よさに任せ、誠人は何も考えずにそう言った。口元がゆるんできて、舌がうまく回らない。
「……ハァ。まったく。
あなたは元々才能を持っています。それを活かしてこなかった。
それが、この数カ月で開花の芽吹きを迎えているんです」
「いやいや……」
癖のようにそう答えると、誠人は次の言葉を失ってしまった。代わりに、すぅすぅといった寝息がこぼれ始める。
「……お疲れ様でした、誠人くん」
鏡の中で、ほころぶ薔薇の笑みは、誰にも見られることはなかった。
ドライフラワーの海の中、滑るようなハサミの音と、忍の足音だけがかすかに波紋を打った。
ガチャリッ――と乱暴に扉が開く音が、その静寂を引き裂いた。
「忍ちゃん、いる!?」
女性にしてはやや低い声の美咲が、大慌てで駆け込んできた。
「美咲……」
不機嫌に眉をひそめる忍に構うことなく、
「あぁ、誠人くんもいた。ちょうどよかった」
と、荒い息を漏らして、顎の汗を手の甲で拭った。
尋常ではない様子に、うたた寝をしていた誠人も意識を引き戻される。
「……なにか、あったのですか?」
忍も不機嫌を引っ込め、道具をエプロンに収めた。
美咲はカツカツとヒールを鳴らして近づき、タブレットを開いた。
「これよ」
そこに表示されているのは、ネットニュースのようだった。
『大手美容品メーカー資宝館から、ヘアケア専用ブランド誕生!』
そんな見出しが躍り、誠人は嫌な予感がしてタブレットを手に取った。忍も顔を近づける。
『リリースを記念して、アロマを使った三種のヘアバームセットを数量限定販売』
商品名の一つは、“恋のゆらぎ”。ほかにも、誠人と忍が考えたコンセプトが躍っている。
「こ、これって……」
誠人の強張った声が、喉の奥でつっかえる。
「…………」
忍も、ただ厳しく、冷たい顔でその画像を凝視した。
「……ごめんなさい」
「どういうことですか?」
硬質な忍の声が、美咲に襲い掛かる。
「おそらく、盗まれた。産業スパイよ」
-第4章へ続く-




