3-香りが洩れるとき
気まぐれに火事現場に足を向けたのは、牛丼屋の定食で腹ごしらえを済ませてからだった。
上司から聞かされたとおり、大事になっている。建物の一角は中身がむき出し、隣の外壁にも黒い焦げ跡を残していた。燃えたのは可燃物だけではない。それらが混ざり合って、鼻を曲げるような匂いが、立ち込めていた。
周りには立ち入り禁止のゲートが張られ、マスコミ関係者、その向こうには消防や刑事らしき人たちの姿がある。
(本格的に、巻き込まれなくてよかった)
スマホを向ける野次馬たちを尻目に、踵を返した。
そこで、くっきりとした輪郭を持つ人物が、目に留まった。
昨日のローズオットーの男だ。
向こうも気づいたらしく、無表情のままこちらを見据え、スイスイと近づいてくる。その男が歩みを進めると、やはり周りの人が自然と避けていく。
(なんか、怖い。逃げよう……)
ざり。と地面を踏んだところで、テノールボイスに声を掛けられた。
「尾花誠人さん」
(なんで名前知ってるんだ!?)
思わず顔を上げてしまった。
太陽の下では、その肌はいっそう透き通り、髪も瞳も淡い茶色がゆらりとして見えた。背も高い。一八五センチは超えているのではないだろうか。
光沢のある黒いワイシャツのボタンを二つ開け、細身の黒いパンツを合わせているだけなのに、全身から燐光を放っているようだ。
「大怪我にならなかったようですね」
「あ、はい。昨日は……ありがとう、ございました」
そうだ。一応お礼を言っておかないと失礼だろう。
男は値踏みするように一瞥をくれると、焦げた外壁のほうに視線を移した。
「私の店が、そこの三階なんですよ。
火事と聞いて出てきたら、ふらふら歩きのあなたの姿が見えたので、煙を吸ったのかと心配になりました」
「そうだったんですか」
「ただの酔っ払いだったようですね。うちの前に汚いものを残されなくて安心しました」
「…………」
仰るとおり…なのだが、初対面でなんだその言いぐさは。誠人はギリッと男を睨みつける。
男は、軽く握った拳を顎に当て、誠人を見据える目を細めた。
「髪、焦げてますね」
カッと羞恥心で顔が熱くなる。思わず左手で側頭部を押さえるが、今度はその手を取られてしまった。
スンッと、鼻をひくつかせた気がした。
「炎症、そこまで酷くなくてよかったですね」
なんだろう。すごくマイペースというか、上から目線というか、正直ムカつく。友達にはなれないタイプだ。
「はい。お気遣いありがとうございます」
手を振り払おうとしたが、逆にぐいと掴まれてしまう。
そのまま、「ちょっと来てください」と昨日の横道に連れ込まれる。
「え、ちょ……なんですか?」
「髪、そのままではお仕事に差し支えますよね?」
だからなんだと言うのだ。関係ないではないか。
連れて行かれた先にあったのは、ドライフラワーの海だった。
大小さまざまな花束が観葉植物代わりに置かれ、壁にも天井にも花束が吊るされている。
照明は絞られ、おしゃれを絵に描いたような美容院。施術台は一つしかない。
「店の前はあの状態ですからね。本日のお客様にはキャンセルのお願いをしたんです」
「えっと俺、持ち合わせが……」
財布なんて持ってきていない。スマホ決済できたとしても、お高そうだ。
「サービスです」
「え、いいんですか?」
鏡越しに茶色い目に問いかけると、男は表情を変えないまま頷いた。
「その代わり」
「はい」
「あなたのヘアバームと、手に塗っている軟膏のメーカーを教えてください」
「え?」
「とても上質な香りがします。私は商品開発もしているので、いろいろなサンプルを取り寄せるのですが、あなたが使っているものには不純物の雑味がありません」
「――」
また、顔が火照ってくる。きゅっと肩がすくんだ。
「どうしました?」
「…いえ。あの……」
言い淀む誠人を追い詰めるかのよう、男は、きれいなアーモンドアイをキュッとすぼめた。
「俺の……手作り……です」
「…………ほう」
鏡の向こう側で、少しだけ、男の口角が上がった。




