9-海にたゆたうマンダリン
腕を組みながら出て行く翼と芽衣を見送ったあと、あさひだけは残って、ソファにちょこんと座っていた。
しばらく名残惜しそうに扉を見つめていたが、やがてぐるりとサロン内を見回した。
おもむろに、口を開く。
「尾花さんがこんな活動してるなんて、意外でした」
色のないドライフラワーの中に溶け込んだ声には、どこかスッキリとしていた。
心の中で、整理がついたのかもしれない。
「会社の人には内緒にしてね」
誠人は眉根を下げ、困ったように苦笑する。
「え。カッコいいじゃないですか」
驚いたように身を乗り出す。
「……アロマ男子なんて、引かない?」
「そんなことないです。ひとの気持ちをズバズバ当てちゃって、占いみたいでびっくりしました。なんで隠すんですか?」
「それは…昔からの癖というか……」
香りに他者を当てはめて見てしまうなんて、言われた本人からしたら、気持ち悪くないのだろうか。
しどろもどろに言い淀む誠人に、あさひは心から不思議だと言わんばかりに首を傾げた。
「まあ、ちょっと恥ずかしい昔話だけど……」
そう前置きして、誠人は中学時代にクラスメイトにからかわれた話を持ち出した。
それを聞いたあさひは、
「ぷっ」
と小さく吹き出した。
「ほら笑った。だから話したくなかったんだよ」
「すみません。やだ、尾花さん、顔真っ赤ですよ」
キラキラと眩しくまつ毛を揺らすあさひから、誠人は思わず顔を背けた。
あさひは、改めてドライフラワーの海を眺めたあと、ふーっと呼吸を吐き出し、笑みを収めた。
「……で。尾花さんの香り診断としては、山本さんはオッケーだったから採用したんですね」
声音もにわかに真剣なものになるが、視線はあいかわらず海の中を漂ったままだ。
誠人は、スッと背筋を伸ばす。
「……うん。なんだかんだ、香りは嘘をつかないからね。
山本はまだガキ。やったことは、正直許されることじゃないけど、穏便に済ませて、お母さんの治療費をなんとかさせるには、これしかないかなって」
「そっかぁ……」
あさひは「うーん」と唸りながら、思考を巡らせている。
「感情的には、まだ折り合いがつきません。ぜんっぜんつきません。
けど、芽衣ちゃんがしっかりしようと頑張ってくれるなら、それはいいことなのかな…っても、思います」
誠人は、体が膨らむほど大きく息を呑んだ。
「ん~でも、正直な気持ち言うと、山本さんじゃなくてもいいじゃんって」
「うん。それは俺も思う」
あさひの葛藤に、誠人は即同意した。
「――本人も目を背けたかったのかもしれませんよ」
そんな二人のあいだに、テノールボイスが割って入った。あさひはふっと顔を上げる。
忍が、淹れたてのコーヒーをトレイに乗せて立っていた。
今さら忍の存在を認識したのか、あさひは「うわ、イケメン」と呟いた。
話し合いの最中は緊張感に包まれていたから、それどころではなかったのかもしれない。
あさひは、ぺこりと会釈をして、カップを両手で手に取った。
「芽衣さん自身、山本氏に対しては恋愛感情ではなく、まだ熱に浮かされるだけかもしれません」
「そう…ですよね。
それに、結婚の話とかぜんぜん知りませんでした。
……なんか秘密があったってことも、ショックだなぁ」
「……」
忍は黙って、とつとつと零れるあさひの言葉を受け止める。
「芽衣ちゃん、逃げたいのかも。
あ、逃げって言っちゃダメか。自立したいってことですもんね。
はぁ~私なんて、大学二年のときなんて、まだ何も考えてなかったなぁ」
「それが一般的ではないでしょうか」
忍もカップを口に運ぶ。
「そんなもんですよね。芽衣ちゃんの家って、やっぱり特殊だから、私と芽衣ちゃんは仲良くても、家のことなんて何も知らないんですよね」
「そうなんですね」
適度な相槌に、あさひの言葉も熱を帯びてくる。
「そんな家なら逃避行しちゃえばいいのよ」
誠人は思わずくすりと笑みをこぼした。
「けど、あの二人が付き合い続けるなら、お母さんが大騒ぎだよなぁ」
先日の佐々木恵を思い出して、誠人は頭が痛くなる気がした。
「ですよねぇ」
軽口を交わす二人に、忍はゆるりと握った拳を顎に当てた。
「……ふっ」
そして、口角を吊り上げる。上質な薔薇を思わせる意味深な微笑みに、誠人もあさひも、吸い寄せられるように息を呑んで言葉を失った。
「誠人くんには折り入って話があります」と、忍があさひを送り出したあと、誠人はふてくされたようにぐったりとソファで寝そべった。
誠人だって帰りたかった。
尾行に調香に、なによりもあさひへのアロマ男子バレ。今日一日でいろいろあって疲れたというのに……。
向かいにどっしりと座りながら、忍は氷のような冷たい半眼で睨めつけている。
「……で、ホームズさん」
呻くような誠人の声に、
「なんですか、ポアロさん」
と、忍は軽く返した。
「いえ。ポアロはそんなだらしない恰好はしませんね。彼は美意識に長けた紳士です」
「だったら、忍さんがホームズもポアロもやればいいじゃないですか」
誠人は口の中でチッと舌打ちし、言い返しながら、のそりと起き上がった。
飲み頃を過ぎて酸っぱくなったコーヒーをすすると、膝で頬杖を突きながら、翼と芽衣、そしてあさひが出て行った扉を見つめた。
「佐々木さまの相談、どうすりゃいいんでしょうね……?」
「見事に、相談者の悩みの種を増やしてくれましたね」
「スミマセンね!」
忍の言葉に、誠人は投げやりに背もたれにもたれかかった。
「……佐々木さまの意向に沿うなら、そして社会的正義としては、山本氏を引き離すことが正しいでしょう。
ですが、あさひさんの言うように、芽衣さんの心の成長に、彼が起因していることも事実だと、私も捉えています」
誠人としても同意見だったので、黙って頷き、カップを口へ運ぶ。
「それもそうですね。
というか、結婚なんて出されると一足飛びな感じですけど、付き合ってみて初めてわかるというか、付き合ってみないとわからないこともありますよね」
「ほう。経験があるようですね」
「ブッ――!」
口に含んだコーヒーが、テーブル越しに忍に直撃した。
ウォールナットの天板にも点々と染みが散っている。
底抜けに冷たい視線が、誠人を射貫いた。琥珀色の瞳が真っ暗だ。
「し、忍さんが変なこと言うから!」
オタオタする誠人を無視して、忍は静かにお手拭きで拭いていく。
「忍さんこそどうなんですか? こないだの美咲さんとか、すごくカッコいい女性ですよね!」
少し反論してやろうと思って口に出したところで、今度はピシリと固まった。
「ミミが……」
今までにないほどに、表情筋が、いや全身が強張っている。
「ミミ?」
「失礼。彼女のニックネームです」
それを聞いて、誠人はにんまりと口角を上げた。
「へぇ~ニックネームで呼び合うほどの仲なんですね~仕事だけだとそうはなりませんよねぇ」
「ハァ……」
忍はうんざりといった様子で短く息を吐き捨てた。
「彼女は…いわゆる昔馴染というところでしょうか。ただ、あなたが勘繰るような関係ではありません。えぇ、決して――」
“決して”に、えらく力が籠っている。このローズオットー級の美形が頑なになる相手に、誠人は妙に興味が湧いた。
「今度、美咲さんにいろいろ聞かせてもらお~」
ケラケラと笑ってみせる誠人に、忍は湿った目線で一瞥をくれた。本当に嫌がっているらしい。
「まあいいでしょう。
さて。佐々木母娘の件ですが……」
「……」
「たしか佐々木さまには、弟がいたはずです。
なので、その美咲に、ちょっと手伝ってもらいましょう」
「……はい?」




