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香中忍のサロンと調香師の観察  作者: 水野沙紀
【第3章前編】イランイランを厭う女たち
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8-殻を破るペパーミント

 自立したい女性。

 その言葉を聞いた途端、芽衣は顔をくしゃくしゃに歪ませた。ぐっと上を向き、目尻に集まる熱いものをごまかそうと目をしばたたかせる。


「芽衣ちゃん……?」

 込み上げてくるものを我慢しているのが、翼にもわかったのだろう。オロオロしながら、声を掛ける。


 人は、いきなりワッと泣いたりしない。

 じわじわと感情が込み上げて、決壊を迎えて、初めて涙になるのだ。

 芽衣はまさにその過程をたどっていた。


「私、私は……」

 嗚咽を漏らさないよう、必死で耐えている。

「芽衣さん、これを使ってください」

 忍がスッと白いハンカチを差し出した。


 すっかり存在を忘れていたが、「壁」に徹していたのだろう。

 街中では目立ちすぎるこの男も、ドライフラワーの秘密基地では、存在を薄くすることもできるようだ。


 芽衣は両手でがっしとハンカチを掴むと、思いっきり顔をうずめた。

 誠人はスッと視線を逸らす。

 女の子が泣くところなんて、見たくないし、見られたくないだろう。


 しゃくりあげる芽衣の背中にあさひが手を伸ばしかけたが、それより先に翼が手を回してゆっくりと撫で始めた。

 誠人は、腕時計の文字盤が動いていくのを見つめていた。

 生理現象として、肩を上下させながら、芽衣は誠人に向き直った。

 その視線を、翼も、そしてあさひも忍も追って誠人を見つめる。


「どうして、わかったんですか?」

「……うん。まあ、いろいろあるんだけど」

 誠人はポリポリと頬を掻いた。


 忍は、ゆるりと拳を顎に当てている。

 誠人任せにしようとする忍に、誠人はくいっと顎で「あなたがどうぞ」と意思表示した。今回のことは、さすがに忍だってわかっているだろう。

 あさひの前でアロマバレだけでなく、人間観察なんて披露したくない気持ちもある。


 目力だけで「あなたの仕事です」と反論してくる忍に、誠人は首を振った。

 芽衣との付き合いは、忍のほうが長い。忍から聞かされたほうが、芽衣だって納得するはずだ。

 忍は考えるように目を閉じ、顎から手を下ろした。

「芽衣さんは、アルバイトを始めたそうですね」

「は、はい」

「その服も、鞄も、よく似合っています。ハイブランドなポシェットよりも、ずっと年相応で愛らしい」

「……」

 芽衣は顔を真っ赤にして、膝の上に乗せた鞄を大事そうにぎゅっと胸に抱いた。


 そう。美意識にうるさいこの男が、芽衣の服装や小物の変化に気づかないはずがない。


「自分で働いたお金で買ったのですね」

 芽衣は、鞄を握る腕に力を込めた。

「私……」

 言いかけて、翼を見上げた。翼は芽衣の肩を抱いたまま、「ん?」と、優しく小首をかしげる。

 意を決したように、ごくりと喉を鳴らして、芽衣は口を開いた。

「私、今まで、どうしようもないって思ってたんです。

 医者になれるような頭もないし、なりたくもないし。

 でも、一人っ子だから、病院を継げる人に婿養子に入ってもらうしかないんだなって。

 だったら、どうでもいいやって」

そう告げる芽衣の口元は、歪んだ笑みを形どっていた。

「…………」

 翼は閉口する。

 あさひはというと、口元にぎゅっと力が入り、目を伏せていた。

「だから、翼くんにお金貸してって言われたときも、別にいいやって。私の存在なんてそんなもんだし、いまが楽しければって……」

 ぼとり。堪えていたものが、また大きな粒となって零れ落ちた。

 とめどなく続くそれを任せるままに流しながら、翼の顔をしっかり見つめた。

「でも、翼くんがなんでお金必要なのか知って、いま頑張ってるの知って……。全部話してくれて、私…………」

 甘かったんだなって。掻き消えそうな声で、そう呟いた。


「ママに言わなきゃいけないけど、まだ言えないんです」

 話が飛んだが、芽衣の中ではきっとつながっている。


「つまり、こういうことですか」

 忍は感情のないテノールボイスを差し挟んだ。

「自立したい。そのために、社会勉強としてアルバイトを始めて、身の回りの小物も整理したと。

 今後どうするかは、考えているのですか?」

「翼くんと、ずっと一緒にいたい」

「ですが、この男は犯罪まがいのことをしています。

 彼でなくてもいいのでは?」

 芽衣は、カッと顔を上げた。

「忍さんまでそんなこと言うんですか!」

 真っ赤になった顔には、悔しさがにじんでいる。

 忍は陶磁器のように整った顔を一ミリも動かさず、ただ黙ってその言葉を受け止めた。


 これではまた平行線だ。

 忍のトーク下手を甘く見ていたかもしれない。

 誠人は軽い頭痛を覚えて、胸の奥でため息を押し殺す。そして、空気を換えるため、ざわとらしく息を吸って、吐き出すと同時にパンパンッと高い音で手を叩いた。

「はい。二人とも、落ち着いてください」

 言って、誠人もようやく床から立ち上がって、忍の隣にどさりと座った。

 あえて「よいっしょ」なんて頓狂な声をあげながら。


「変わろうとしている若者を、無理に押し止めなくていいんじゃないですか。

 山本、お前のボロアパートとやらを見たら、芽衣さんも幻滅するんじゃないか」

 言って、誠人は冷めたコーヒーをすすった。

 翼は気まずそうに耳の後ろを掻いた。

「行く」

「え?」

「私、翼くんの家に行ってみる」

「いや、いやいやホントに俺んちボロアパートだからね?」

 翼は慌てながら、芽衣の両肩を掴んだ。

「卒業したら家を出るもん。普通の暮らしを知らなきゃいけない」

「普通って言っても、俺んちは築三十年は超えてるし、木造アパートだし、畳とか腐りかけてるし、階段とかも錆びだらけで、隣んちの話し声とかテレビの音とかも丸聞こえなんだって」


 (本当にギリギリの生活してたんだな……)


 庶民の誠人にはぼんやりとイメージが湧いた。だが、「邸宅」に住んでいる芽衣にとってはカルチャーショックになるかもしれない。

 そう思いながら、またコーヒーを口にすると、斜め向かいからあさひの視線を感じた。


「行ってみてからでいいじゃない。

 スタッフのお兄さんが言うように、普通に付き合ってたら、お互いの家に行くものでしょ。それで合わないなって思ったら、話し合いしようよ。

 私、普通のお付き合いがしたい!」

「…………マジかよ」

 真っ赤になった耳の後ろだけでなく、後頭部もボリボリと搔き始めた。

「あの家見せるとか、恥ずかしすぎる……」

 翼の本音が、ポロリと漏れた。


 誠人は、その気持ちにいたく同情した。


 (わかる。わかるよ、山本。俺だって、アロマ趣味のあの部屋には誰にも上がり込んでほしくない)


「あの、一つだけいいですか」

ここまで黙っていたあさひが、剣呑な声で言った。

「なに、あさひちゃん」

「山本さんは、ちゃんと芽衣ちゃんのこと、好きで付き合ってるんですよね?」


 たしかに、これまで翼のハッキリとした気持ちは議題に上がっていない。

 全員の目が、突き刺すように翼に集中する。

「…………えっと…」

 当の本人はというと、手で顔を覆いながら視線を彷徨わせている。そこには、元二股・恋愛詐欺男の女たらしぶりは欠片もない。ただの不器用な若者だ。


 (あぁ。絆されたんだな……)


 あさひも同じ気配を察したのか、諦めたように肩を落とした。


「これから、翼くんの家に行くからね!」

 芽衣は翼の反応に嬉々として声を高くし、翼の腕に抱きついた。

 翼は声にならない声で唸っていたが、「それで幻滅したら、ハッキリ言ってくれ」と応えた。


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