8-殻を破るペパーミント
自立したい女性。
その言葉を聞いた途端、芽衣は顔をくしゃくしゃに歪ませた。ぐっと上を向き、目尻に集まる熱いものをごまかそうと目をしばたたかせる。
「芽衣ちゃん……?」
込み上げてくるものを我慢しているのが、翼にもわかったのだろう。オロオロしながら、声を掛ける。
人は、いきなりワッと泣いたりしない。
じわじわと感情が込み上げて、決壊を迎えて、初めて涙になるのだ。
芽衣はまさにその過程をたどっていた。
「私、私は……」
嗚咽を漏らさないよう、必死で耐えている。
「芽衣さん、これを使ってください」
忍がスッと白いハンカチを差し出した。
すっかり存在を忘れていたが、「壁」に徹していたのだろう。
街中では目立ちすぎるこの男も、ドライフラワーの秘密基地では、存在を薄くすることもできるようだ。
芽衣は両手でがっしとハンカチを掴むと、思いっきり顔をうずめた。
誠人はスッと視線を逸らす。
女の子が泣くところなんて、見たくないし、見られたくないだろう。
しゃくりあげる芽衣の背中にあさひが手を伸ばしかけたが、それより先に翼が手を回してゆっくりと撫で始めた。
誠人は、腕時計の文字盤が動いていくのを見つめていた。
生理現象として、肩を上下させながら、芽衣は誠人に向き直った。
その視線を、翼も、そしてあさひも忍も追って誠人を見つめる。
「どうして、わかったんですか?」
「……うん。まあ、いろいろあるんだけど」
誠人はポリポリと頬を掻いた。
忍は、ゆるりと拳を顎に当てている。
誠人任せにしようとする忍に、誠人はくいっと顎で「あなたがどうぞ」と意思表示した。今回のことは、さすがに忍だってわかっているだろう。
あさひの前でアロマバレだけでなく、人間観察なんて披露したくない気持ちもある。
目力だけで「あなたの仕事です」と反論してくる忍に、誠人は首を振った。
芽衣との付き合いは、忍のほうが長い。忍から聞かされたほうが、芽衣だって納得するはずだ。
忍は考えるように目を閉じ、顎から手を下ろした。
「芽衣さんは、アルバイトを始めたそうですね」
「は、はい」
「その服も、鞄も、よく似合っています。ハイブランドなポシェットよりも、ずっと年相応で愛らしい」
「……」
芽衣は顔を真っ赤にして、膝の上に乗せた鞄を大事そうにぎゅっと胸に抱いた。
そう。美意識にうるさいこの男が、芽衣の服装や小物の変化に気づかないはずがない。
「自分で働いたお金で買ったのですね」
芽衣は、鞄を握る腕に力を込めた。
「私……」
言いかけて、翼を見上げた。翼は芽衣の肩を抱いたまま、「ん?」と、優しく小首をかしげる。
意を決したように、ごくりと喉を鳴らして、芽衣は口を開いた。
「私、今まで、どうしようもないって思ってたんです。
医者になれるような頭もないし、なりたくもないし。
でも、一人っ子だから、病院を継げる人に婿養子に入ってもらうしかないんだなって。
だったら、どうでもいいやって」
そう告げる芽衣の口元は、歪んだ笑みを形どっていた。
「…………」
翼は閉口する。
あさひはというと、口元にぎゅっと力が入り、目を伏せていた。
「だから、翼くんにお金貸してって言われたときも、別にいいやって。私の存在なんてそんなもんだし、いまが楽しければって……」
ぼとり。堪えていたものが、また大きな粒となって零れ落ちた。
とめどなく続くそれを任せるままに流しながら、翼の顔をしっかり見つめた。
「でも、翼くんがなんでお金必要なのか知って、いま頑張ってるの知って……。全部話してくれて、私…………」
甘かったんだなって。掻き消えそうな声で、そう呟いた。
「ママに言わなきゃいけないけど、まだ言えないんです」
話が飛んだが、芽衣の中ではきっとつながっている。
「つまり、こういうことですか」
忍は感情のないテノールボイスを差し挟んだ。
「自立したい。そのために、社会勉強としてアルバイトを始めて、身の回りの小物も整理したと。
今後どうするかは、考えているのですか?」
「翼くんと、ずっと一緒にいたい」
「ですが、この男は犯罪まがいのことをしています。
彼でなくてもいいのでは?」
芽衣は、カッと顔を上げた。
「忍さんまでそんなこと言うんですか!」
真っ赤になった顔には、悔しさがにじんでいる。
忍は陶磁器のように整った顔を一ミリも動かさず、ただ黙ってその言葉を受け止めた。
これではまた平行線だ。
忍のトーク下手を甘く見ていたかもしれない。
誠人は軽い頭痛を覚えて、胸の奥でため息を押し殺す。そして、空気を換えるため、ざわとらしく息を吸って、吐き出すと同時にパンパンッと高い音で手を叩いた。
「はい。二人とも、落ち着いてください」
言って、誠人もようやく床から立ち上がって、忍の隣にどさりと座った。
あえて「よいっしょ」なんて頓狂な声をあげながら。
「変わろうとしている若者を、無理に押し止めなくていいんじゃないですか。
山本、お前のボロアパートとやらを見たら、芽衣さんも幻滅するんじゃないか」
言って、誠人は冷めたコーヒーをすすった。
翼は気まずそうに耳の後ろを掻いた。
「行く」
「え?」
「私、翼くんの家に行ってみる」
「いや、いやいやホントに俺んちボロアパートだからね?」
翼は慌てながら、芽衣の両肩を掴んだ。
「卒業したら家を出るもん。普通の暮らしを知らなきゃいけない」
「普通って言っても、俺んちは築三十年は超えてるし、木造アパートだし、畳とか腐りかけてるし、階段とかも錆びだらけで、隣んちの話し声とかテレビの音とかも丸聞こえなんだって」
(本当にギリギリの生活してたんだな……)
庶民の誠人にはぼんやりとイメージが湧いた。だが、「邸宅」に住んでいる芽衣にとってはカルチャーショックになるかもしれない。
そう思いながら、またコーヒーを口にすると、斜め向かいからあさひの視線を感じた。
「行ってみてからでいいじゃない。
スタッフのお兄さんが言うように、普通に付き合ってたら、お互いの家に行くものでしょ。それで合わないなって思ったら、話し合いしようよ。
私、普通のお付き合いがしたい!」
「…………マジかよ」
真っ赤になった耳の後ろだけでなく、後頭部もボリボリと搔き始めた。
「あの家見せるとか、恥ずかしすぎる……」
翼の本音が、ポロリと漏れた。
誠人は、その気持ちにいたく同情した。
(わかる。わかるよ、山本。俺だって、アロマ趣味のあの部屋には誰にも上がり込んでほしくない)
「あの、一つだけいいですか」
ここまで黙っていたあさひが、剣呑な声で言った。
「なに、あさひちゃん」
「山本さんは、ちゃんと芽衣ちゃんのこと、好きで付き合ってるんですよね?」
たしかに、これまで翼のハッキリとした気持ちは議題に上がっていない。
全員の目が、突き刺すように翼に集中する。
「…………えっと…」
当の本人はというと、手で顔を覆いながら視線を彷徨わせている。そこには、元二股・恋愛詐欺男の女たらしぶりは欠片もない。ただの不器用な若者だ。
(あぁ。絆されたんだな……)
あさひも同じ気配を察したのか、諦めたように肩を落とした。
「これから、翼くんの家に行くからね!」
芽衣は翼の反応に嬉々として声を高くし、翼の腕に抱きついた。
翼は声にならない声で唸っていたが、「それで幻滅したら、ハッキリ言ってくれ」と応えた。




