6-花びら二枚目めくられて
「どうしてこうなった……」を、誠人は昨日の仕事帰りから千回以上、心の中で繰り返していた。
仕事終わりの翼に声を掛けたところ、
「実は、明日芽衣ちゃんとデートで……」
とひそひそ声で聞かされ、グーパンしたくなった。
こらえたのは、よくやったと思う。社会人二年目にして、パワハラ先輩にはなりたくない。
そのことで忍に連絡を入れたら、自分も出向くと申し出てきて誠人は却下した。
デート場所は天下の原宿、竹下通り。
道を歩けば人が避ける、そんなローズオットー級の美貌を持つ御仁が歩いたら、芸能人かなにかと間違われて尾行も何もできないではないか。
「1人で竹下通りとか、さもしすぎる……」
亀のごときノロノロとした進み、何度も人と肩がぶつかりながら、誠人は翼と芽衣を見失わないよう後を追った。
二人が入ったお店が、脇道にあるカジュアルなカフェだったのは安心した。一人でカップル向けのお店はメンタル的にきつい。
帽子のツバを深く下ろし、近づきすぎないよう席を取る。
「見て。バイト先の制服、似合ってるでしょ?」
「へぇ。やっぱり芽衣ちゃんは何着ても可愛いな。すごい似合ってる」
芽衣は高い声を上げながら、スマホ画面を翼に、当の翼も鼻の下を伸ばしている。
(おい。別れる気ないのかよ)
「えへへ。覚えることが多くて大変なんだけど、でも楽しい!
翼くんは新しい仕事どう?」
「あーしごかれてるよ」
翼は苦笑して返した。きっと脳裏にはあさひのことが浮かんでいるのだろう。
「……やっぱり社会人って、大変だよねえ」
芽衣はふっと笑みを引っ込め、視線を揺らしながら、ストローを咥えた。
「芽衣ちゃんはまだ二年生だろ。考えるの早いんじゃない?」
「でも、翼くんも同い年で働いてるでしょ」
「……俺の場合は、まあ」
言い淀み、翼もドリンクを啜った。
二人の間ににわかに沈黙が下りる。
誠人はテーブルに頬杖をついた。
渋谷で二人と対面したときと、ずいぶん雰囲気が違う。
メロドラマみたいなバカップルぶりを見せつけることもなく、お互いにどこか気づまりというか、話しづらそうな雰囲気が漂っている。
誠人から見て、変化が大きいのは芽衣のほうだ。
翼は戸惑いつつも芽衣の好意を受け止めているといった具合だが、芽衣から発せられた「社会人」という言葉には、重みを感じた。
恵の「卒業したら専業主婦」という言葉とは、どうしたってかみ合わない。
渦のような疑念が生じてくる。勝手な憶測ならいくらでもできる。だが、事実はわからない。
カップの結露を、紙ナプキンで拭いているときだった。
「あれ。尾花さんですか?」
じゅわっと明るい果実のような声で、思考の海から引き上げられた。と、同時に、頭の奥で危険信号が点滅する。
「ば、板野さん……」
「こんなところで一人なんて珍しいですね。待ち合わせですか?」
ここのところ職場では見せてくれなくなった、生来の眩しさで微笑みかけてくれる。
嬉しい。素直に嬉しいが、いまはそれどこではない。
「あ、ちょっとこの辺に用事があって、休んでたところ。
板野さんは?」
「表参道の美容院に行って、その帰りです」
ああ、どおりで。髪が天使の輪のように輝いている。いや、いまはそんな呑気なことを考えている場合ではない。
「相席いいですか?」
と座ろうとするのに対し、
「あ、あのさ。この辺くわしい? ちょっと小腹が空いちゃってさ、ほかのお店あったら一緒に行かない?」
誠人は慌てて立ち上がった。
その瞬間、ガタン! と店内に音を響かせて、椅子が倒れた。
店内の視線が、一斉に誠人に集まる。
もちろん、芽衣も、翼もこっちを向いている。
(やってしまった……)
芽衣は素直に驚いたようで、目を丸くしている。
翼はというと、顔面蒼白で、金魚のように口をパクパクさせながらあさひを凝視していた。
店内の注目はすぐに霧散したが、あさひだけは目くじらを立て、周囲にまとう温度もどんどん上がっていっている。
誠人の静止も待たず、ツカツカと二人のテーブルに進んでいく。
「山本さん!」
ドンッと天板を叩く。
「は、はい!」
「なんで芽衣ちゃんと一緒にいるの!」
(うわぁ。修羅場の始まりだぁ)
誠人は帽子を脱ぎ捨て、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
◇
「芽衣は別れる気、ないもん」
怒られた子犬のように、芽衣は縮こまってしまった。一人称が“芽衣”に変わっている。
あさひはあさひで、母親が子どもの悪戯を叱るようなモードだ。
翼も萎縮してしまい、二股をかけていたときの手練れ感も、迫力も一切ない。丸裸にされた少年そのもの。
なぜか同席させられた誠人まで、アイスレモンティーの氷が音を立てるのを見守るしかなかった。身の置き場がない。
「翼くんだけだもん」
「何が?」
「翼くんだけが、ちゃんと芽衣にホントのこと自分で話してくれたもん。
いままで、そんな人いなかった。いつも勝手に引き離されて、芽衣と向き合ってくれた人いなかった。
だから、いまは翼くん、芽衣のこと好きじゃないかもしれないけど、好きになってもらえるように頑張ろうって思ったんだもん」
俯いてしまった芽衣に、翼は横目で様子をうかがった。誠人も少しだけ顔を上げる。
「何言ってるの。頑張って更生しなきゃいけないのは、山本さんのほうでしょ」
ビシッと指差され、翼はまたビクリと全身を震わせた。
「してるじゃん! 翼くん、いま一生懸命働いてるじゃん!」
かばおうとしたのか、芽衣は机に手をついて声を立てる。
また店内の視線が一瞬こちらに集まった。
「ま、まあまあ、板野さんも芽衣さんも落ち着いて」
誠人が両手を前に出して、制御にかかる。
(こんなおしゃれなカフェで話し合うことじゃないよな…)
心の中で周りに詫びながら、誠人は早くこの時間が終われと祈った。
芽衣は怒り心頭のあさひを前に、たどたどしい言葉しか出てきていない。このままでは、平行線のまま時間が過ぎていくだけだ。
芽衣は膝に置いたポシェットをぎゅっと握りしめた。
その鞄は、どこかチープな合革製で、ブランドものではなかった。
「……私は、ちゃんと好きな人と同じ目線で頑張りたいの」
ふいに、誠人の鼻腔の奥が反応した。
あの、アンバランスな香りがしない。
そこにいるのは、実直でひたむきな女の子だ。
誠人は自分のボディバッグを開く。
時間があれば読もうと思って入れていた成分表と、手書きラベルの貼られたバームが数種。その一つの蓋を開け、芽衣に渡した。
不思議そうに見つめるあさひの視線が痛い。
「この香り、どう思う?」
芽衣はスンッと鼻を鳴らした。
「あれ。これ……」
そう。芽衣がGarden Therapyに来店したときに調香した、アンバランスな恋のレシピ。
「なんだろう、あんまり好きじゃないかも」
その言葉に、誠人は唇に指を当てた。
(どうしようか。ここから連れて行けるアロマショップはある)
唇に指を当てて考え込んだ。
いまの本心を推し量るには、アロマを試してもらうのが、誠人にとってベストな選択だ。表参道まで歩けばアロマショップは点在している。
それでも……。
誠人は、訝し気に食い入るあさひを横目で捉え、胸の中でため息を押し殺した。
「山本、芽衣さん、このあとGarden Therapyに来れる?」
二人は困惑したように誠人を見てから、お互いの様子をうかがった。
「尾花さん、ガーデンセラピーって?」
あさひが聞いてくる。
(そりゃあ、聞いてくるよなぁ)
「ごめん。いまはちょっと。ただ、二人のことをよく知ってる大人の人がいるんだ」
「……私は行っちゃいけないんですか?
私だって芽衣ちゃんのことは、昔から知ってます」
あさひの主張はもっともだ。妹のように可愛がっているのだから、放っておけないだろう。
「…………」
「尾花さん!」
アロマが趣味で副業調香師をしているなんて、やはり知られたくはない。
そこはどうしても踏み越えてほしくない一線だった。
だが、あさひの顔は「納得いかない」と如実に物語っている。
はらり。と、心の中で何かが一枚捲られる気がした。
「うん。板野さんも一緒に行こう」
安心したように、あさひの顔がほころんだ。
「ほら、山本、行くぞ」
「は、はい!」
忠犬のごとき翼の返事。おそるおそるといった具合に、芽衣の手を引いて、ちゃんと誠人のあとをついてきた。
(本当に、どうしてこうなってしまったかなぁ)




