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香中忍のサロンと調香師の観察  作者: 水野沙紀
【第3章前編】イランイランを厭う女たち
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4-一本鎗のブラックペッパー

「ご無沙汰しております。佐々木さま」

 忍が迎え入れた芽衣の母親、佐々木恵は人好きのする笑みを浮かべていた。

 背はさほど高くなく、年相応にふっくらとした体躯に、芽衣とそっくりな顔。目尻に走るカラスの足跡が、医師という重圧ある責務と、それを乗り越えてきた信頼の印として刻まれているようだった。

 荷物を忍に預けて施術台まで歩くその数歩の佇まいからは、自信にあふれた自立した女性という空気感がにじんでいた。


 だけど、誠人としては、拍子抜けしたというのが本音だ。

 もっと厳格な、取り付く島もないような人なのかと思っていたのだ。


 忍と入れ替わりに、アロマの説明に入る。

「芽衣から聞いていたけど、本当にこんなサービス始めたのね」

 ゆったりとした笑みからも、プレッシャーを感じさせない。診察してもらうなら、こんな先生がいいなと思えた。

 それに、芽衣と会話があることからしても、母娘関係が悪いわけではないというのも事実なのだろう。


「ねえ。芽衣はどんなブレンドにしたの? 嗅いでみたいわ」

「かしこまりました」


 誠人は短く答えて、三種のオイルをムエットと呼ばれる、細長い試香紙に垂らした。瓶から直接嗅ぐのではなく、比較検討するために使うアイテムで、サロンの備品として購入したものだ。

 趣味の範囲では面倒くさがって用意していなかったが、調香師として継続することになって、少しずつ備品は増えている。


 恵はゼラニウム、レモンは満足そうにし、最後のイランイランで難色を示した。

「ちょっと厭らしい匂いね。芽衣ってば、こんな香りにしたの……」

 一瞬浮かんだ軽蔑するような表情に、ゾクリと誠人の背筋に寒気が走る。


 イランイランは、官能的とも言われるオリエンタルな香り。あけすけに言えば性欲を高める作用もあって、歴史的には結婚初夜にその花をベッドに撒く習慣もあるほどだ。

 親が娘に勧めたい香りではないだろう。


「これは止めてちょうだい。でもそうね、この二つだけだと、ちょっと物足りないわね」

 恵のオーダーに応じて、誠人は次々と香りをムエットに落としていった。


【本日のレシピ:ゼラニウム、レモン、ブラックペッパー】

 甘いゼラニウムと、ピリッとしたクールなブラックペッパーは、正反対のようでいて、だからこそ多層的な香りを演出する。そこにレモンを入れることで、バランスの取れるレシピだ。

 芽衣のレシピと一種類しか変わらないが、香りの方向性はまったく変わる。


 そして、そこから導き出されるのは――


「…………」

 調香に取り掛かりながら、誠人はひと言も発しなかった。

「珍しいですね。誠人くんが見解を述べないなんて」

「見解って、なんですか、その堅苦しい言い回し」

 軽口を返して、少し肩の力が抜ける。

「佐々木さま、見た目はあんなに穏やかなのに、かなり意思が強くいんじゃないですか?」

「ほう」

「たぶん一度決めたことは、しっかりと貫くような、ブレないとか、芯のある強さといえば聞こえはいいですが…」

「ずいぶん言葉を選びますね」


 それは、そうなるだろう。

 いままで周りからいろいろと聞かされている。先入観も生じるというもの。

 だからこそ、普段使わない精油も試してもらったのだ。


「ブラックペッパーみたいなスパイシーな香りは、精油の中でも少し変わっている面があるんですよ。

 アロマって、リラックスとかリフレッシュに使う人が多いですよね?

 でも、ブラックペッパーはもっとアクティブに心を活性化させるようなイメージです」


 伝わっただろうか、とチラリと忍の横顔を確認しつつ、説明を続ける。


「能動的、スタートダッシュ、背中を押す…というよりバンジージャンプ台から飛び立たせる、いや、自分で飛び出すみたいな」

「激しいですね」

「どれも例えですよ。何て言えばわかりやすいかと思いまして。

要は、自分の意見をしっかり持って、自分に主導権があって、自分の力で走れる。

 ゼラニウムで柔らかさ、レモンで爽やかさもありますが、この調香はけっこうワイルドな香りです。

 香水でいえば、女性らしさよりもユニセックスといったところでしょうか」

「なるほど」

 納得したように、忍は二度、三度と小さく頷いた。

 誠人としては、いつも忍に話が下手と言っているだけに、今回の覚束ない説明に、本当に伝わったのか、一抹の不安を覚えた。


 忍が恵の後ろに立つと、恵は矢継ぎ早に話を始めた。

 最近の患者、流行病、マイナンバーカードと保険証について、新薬、法改正……。

 最初のほうは世間話だったが、後半は専門用語が出てきて、誠人にはサッパリわからなかった。

 忍は適度な相槌を返しているが、理解しているのだろうか。


「そうそう忍さん。芽衣のことなんだけどね、最近アルバイトを始めたのよ。

 自立って思えば好きにさせておいていいんでしょうけど、家では相変わらずふわふわしていて」


 突然の芽衣の話題に、誠人はハッと顔を上げた。


「まあ、社会勉強にはなるかしらね。

 けど、どちらかというともっと教養やマナーを身につけてほしいのよ。あのままじゃ、医者の嫁としては頼りなさ過ぎるわ」

 フンッと鼻を鳴らすその様は、人を小ばかにしているようだ。

「お相手は決まったんですか?」

「うちの部長の息子さんに若手の医師がいるのよ。第一あの子に仕事なんてできると思う?」

「……」


 おっとりとした口調が孕んだ毒気に、誠人は、真綿で首を締められるような息苦しさを感じた。

 親だからって、子どもをこんなふうに“決めつけ”ていいものだろうか。

 それに、医者の嫁はどういうことだ。

 考えるうちに、徐々に視界が狭くなる。鏡越しの恵しか目に入ってこない。

 だが、突き刺すような視線に、誠人は我に返った。


 鏡の向こうで、忍が「何も言うな」とばかりに誠人を見つめている。

 誠人は数度パチパチと瞬きをすると、もぞりと座り直し、テーブルの天板に向かって顔を俯けた。


「アルバイトを始めたということは、卒業後の就職も考えているのでは?」

「そうは言ってもねえ。まあ、旦那の稼ぎがよければいいのかもしれないけど」

「というと?」

「前に話さなかったかしら?

 元夫は私の半分くらいしか収入がなくて、それでも男でしょう? 妙にプライドだけは高くて。

 よく共働き世帯は妻が夫の稼ぎを越えたら仲が悪くなるなんていうけど、その典型よ」

「確かに医師は収入が多いイメージがありますね」

「でしょう。芽衣が小さいうちは別に良かったのよ、それでも。けど、進学とかいろいろ現実的な話になってくると、どうしたってお金の話は出るものだから」


 恵としては、芽衣を中学から私立に入れたかったらしい。だけど、芽衣は友達と離れたくない。元夫も、中学くらいまでなら伸び伸びさせていいんじゃないか。と、ニ対一で、恵が折れたらしい。

 それでも、生活水準の違いから中学校では浮いた存在になってしまい、大喧嘩の末に追い出したらしい。

 「追い出した」というのも、佐々木一族が所有する邸宅だったからだそうだ。


 芽衣にとってそれは、どんなふうに映ったのだろうか。

「それでね、あの子、新しい彼と付き合い出してから変わっちゃったみたいなのよ。

 これまでの交際もろくなものじゃなかったし、次にここに来たら、早く別れて、ちゃんと家庭に入るよう説得してくれないかしら」

「……次回ご来店時に、お話を聞いてみますね」

「そう。ありがとうね」


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