2-サンダルウッドに隠した痕跡
検査入院のひと晩が明けて会社に連絡すると、休みを取るよう言われた。どうやら全国ニュースになるほどの大騒ぎだったようだ。
二日酔いに火傷に、スーツもボロボロ。
帰宅してから支度したところで、遅刻確定だったから助かった。
玄関で後ろ手に鍵をかけ、踵をこすり合わせて革靴を放り投げた。
廊下で煤けたスーツもワイシャツも脱ぎ捨て、火傷に貼られたガーゼも剝がした。
痛みはあるが、そんなことより早くシャワーを浴びたい。
こんな小汚い状態で、聖域たる自分の部屋には入りたくない。
だってそこは……。
ザーザーと頭から熱い湯に打たれて、ようやく深い呼吸が戻ってきた。
ついと、左手を見やる。
火の粉はぶつかったが、にわかに赤くなっただけで、水膨れもできていない。
(この程度なら、アレが使えるかもしれない)
ニヤリと頬がゆるんだ。
1Kマンションの自室に入ると、柔らかく多層的な香りに包まれた。
「はぁ、これだよ、これ」
いろいろな調香を繰り返した結果、ほのかな残り香だけとなった複合アロマ。再現性のない自分だけの空間に、やっと心が満たされる。
スチール棚には、数十本のアロマ製油、キャリアオイル、ワセリン、ミツロウ、その他もろもろの調合基材と器具。
それから、オリジナルブレンドの小瓶やアロマバームがずらりと並んでいる。
決して、世にはびこる“美容男子”にかぶれているわけではない。
脳内図鑑から火傷への効能を検索……するまでもなく、迷いなく一つのバームを手に取った。冷蔵庫で低温管理しているアイテムだ。
姉から押し付けられたドレッサーにどかりと座る。
五ミリリットルの小分け容器の蓋を開けると、ふわりと柔らかいフローラルな香りが広がった。
薬指でバームの表面をすくい、傷跡にそーっと塗っていく。
くんくん。
(あ~いい香り~)
そのままドレッサーに体を預け、しばし左手の香りを堪能した。
これは、いつだって側にある、だけど特別な香りなのだ……。
火傷にはラベンダーが、アロマ愛好家の鉄則。
ラベンダーの精油と、自分で抽出したアロエベラを、ホホバオイルとワセリンで希釈したオリジナルバーム。炎症に良いからと、作ってはすぐになくなる自分だけの定番品だ。
きゅるるる。
腹から雰囲気ぶち壊しな音が聞こえた。
仕方ない。空腹には抗えない。
何か食べに行こう。
ドレッサーから、バームを取り出し、曲がりなりにも髪を整える。
サンダルウッドとサイプレスを、オイルとワセリンに混ぜた自作バームだ。
白檀の名でも知られるサンダルウッドは、瞑想やリラックスしたいときに出番が多い。ブレンドするさいは、香りをワントーン落ち着かせてくれるので、隠れアロマ男子としては心強い一品だ。
ふと鏡を見たら、髪が一部ちぎれている。火の粉にまみれたのかもしれない。まあ、人に見られても気づかれないだろう。
うまく誤魔化すために、少しだけ多めに取って、髪をくいくいとセットする。
そのていねいなヘアセットが、すべての失敗であり、始まりだった――