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香中忍のサロンと調香師の観察  作者: 水野沙紀
【第3章前編】イランイランを厭う女たち
27/53

1-柑橘系は頭痛の種

 香りは、残るものだ。

 心にも、記憶にも、そして場所にも。


 ひとの家に行くと、部屋に染みついた、特有の香りがある。

 街ごとにも香りがある。

 空気感と呼ぶひともいるかもしれない。


 山に行ったとしても、畑ばかりの土地と、白樺の森では違う。

 海ならば、それぞれの海岸によって、潮の濃さも、磯の匂いもまったく別ものだ。


 香りをたどれば、本質が見えてくる。

 そのひとを物語るものでもある。


 だけど、ひとが変われば、心が変われば、環境が変われば、香りだって移ろいゆく。

 香りを起点に、すべてが転がり出すこともある。


 そう、好きだったはずの香りが、いきなり変わるように。

 イランイラン。

 好き嫌いがはっきりと分かれる香りでもある。


 その移り変わりを、ただの隠れアロマ男子が、目の当たりにするなんて。香りを武器にひとを変える、そんな瞬間に立ち会うことになるなんて、少し前までは思いもしなかった――



 右手にマンダリンの板野あさひ、左手にオレンジスイートの山本翼……もとい、右手は火種、左は爆弾…あいだに挟まれた誠人は、導火線……。


 芽衣を騙して交際していた翼。彼を誠人の会社に採用して一週間、ずっとこの状態が続いている。

 新卒のヒロインあさひがピリピリしていることで、フロアの人間は遠巻きにいろいろな噂を囁く始末。

 平穏な暮らしを続けてきた誠人にとって、こんな状況は想定外中の想定外だ。


 マンダリンもオレンジスイートも柑橘系ながら爽やかさと甘さがあって人気だけど、どちらも「リモネン」という特有の香気成分の含有量が多い。

時には頭痛を引き起こすというが、まさに頭痛の種になっている。


「山本さん、入力間違ってる」

 ピシャリとしたあさひの声が、誠人を挟んで翼に投げられた。

「さ、さあせん!」

「言葉遣い!」

「はい。すみません!」

 そんなやり取りが繰り返されるたび、誠人は体が強張るのを感じた。

あさひは入社二年目の誠人よりも厳しい。妹分の幼馴染に二股をかけ、恋愛詐欺まがいにお金を借りていたのだから、当たりが強くなるのも当然だ。


 誠人も翼を連れて出社したとき、ずいぶんと詰められた。

 歳の離れた姉の姿と重なり、姉気質の女性は怒らせると怖いと再認識させられた瞬間だった。

 太陽をいっぱいに浴びたマンダリンはすっかり霧散し、一線を引かれた。そう。天岩戸に閉じこもってしまったように。


 それでも、母親が脳卒中で倒れてから本当に入院しているのだと話すと、ぐっと言葉を呑みこんでくれた。一命はとりとめたものの、いまは容態に合わせてリハビリ中だとか。

 即席の『念書』の写真を見せると、口を真一文字に引き結んだあと、翼に対して「絶対に守ってよね!」と吐き捨てた。


 親を思っての犯行。

 だけど、どんな理由があっても、超えてはならない一線があるのだ。

 それを犯した業を、無邪気なオレンジスイートの翼は、どこまで理解しているのだろうか。


 タイピングも覚束ない指でパソコンに向かう翼を、誠人は横目で盗み見た。

 ひょろりと長い手足はまだまだ少年らしく、上等なオーダースーツは不格好だ。

 スーツの端々から、沁みついたローズオットーの香りが漂ってくる。

 

 請求書をメールに添付しながら、誠人は頭の片隅で、あの夜のことを思い返した。

 それは、翼の香りの核を暴き、採用すると決めたGarden(ガーデン) Therapy(セラピー) -SHINOBU(しのぶ)-にて……。



「それで、話ってなんですか?」

 ゴミ出しから戻った誠人は、大きなドライフラワーの鉢植えに隠されたソファテーブルに通された。

 時刻は二十一時近く。

 翌日も仕事があるので、あまり遅くなるようなら別日に振り替えてもらいたかった。

「まずは、これを」

 渡された資料は、十ページを優に超え、キッチリと左上がホチキスで止められていた。

 【機密事項】の印字があり、誠人は確認するよう顔を上げた。

 爆弾人間を雇うと決めたばかりだ。これ以上の厄介事に巻き込まれたら、さすがに限界値を超える。


「これは俺が見ていいものですか?先に概要だけ聞いても?」

 資料を開くことなくテーブルに置いて、誠人は言った。

「……そういうところはしっかりしていますね」

「忍さんがガバガバなんです」

 デートに探りを入れるスパイみたいな真似も、ターゲットの盗撮も、ついでにいえば私用携帯に顧客情報を送ってくるのも止めてほしい。


「商品開発をしていることはお話しましたよね」

 覚えている。それが原因で、誠人の自作アロマバームの匂いに勘づかれ、調香師としてアルバイト……だけでなく、探偵まがいの真似をすることになったのだ。

「あなたの話を聞いていて、心の有り様で香りの感じ方は違うのだとわかってきました」

 思わぬ言葉にスッと背筋が伸びた。なんだか誇らしい気分だ。

「私が扱うのは主にサロン向けの製品で、香りにもこだわっています。ですが……」

「ああ、フローラル系とか、ハーバル系とか、そういう感じですか?

悪い匂いじゃないと思いますけどね。俺だって、シャンプーとかはドラッグストアで買っています」

 ギュッと、忍の額が波打った。

「嘆かわしい」

 テノールボイスが、ワントーン下がる。こわい。

「知識があるのだから、もっと有効活用するべきです。

 せっかくお姉さまが幼い頃からていねいにケアを教えたというのに、なぜやらないのですか」

 問いかけではなく、「やれ」という命令調に聞こえた。

「好きなのは香りであって、美容に興味はありません」

 誠人はため息交じりに反論する。

「では、あなた自身が作った製品であれば、素直に使いますか?」

「まあアロマ石鹸もレシピは知ってますけど、そこは面倒くさいですね。単に香りを混ぜて楽しむ程度です」


 ブレンドオイルはディフューザーに混ぜて入れるだけ。

 バームも普段使いなら、ワセリンに精油を落として攪拌すれば出来上がり。

 香りを楽しむぶんには、お手軽レシピで十分だ。

 それともう一つ。ヘアバームは市販より安く済むが、石鹸になると基材のほうが高くつくというのも、手を出さない理由だ。


「そうではありません。

 私の製品について、あなたが監修するという意味です」

「え……?」

「共同開発です」

「……」

 突然の申し出に、忍の琥珀色のアーモンドアイを探るように覗いて……。

「興味は、ありませんか?」

 声を、奪われてしまった。

 反応しようにも、口の周りがもごもごと動くだけで、言葉が出てこない。

 なんという吸引力なのだろう。

 今までの要請は、すべて問答無用で「してください」だった。

 それなのに、イエスかノーかで答えられる問いかけに限って、返事ができない。

「……」

「そんなに悩むことですか?」

 黙り込む誠人に忍は首を傾げ、事もなげに目をパチパチさせる。その言葉には、何の含みもない。


 ああ、そうか。

 やっぱりこの男は、無自覚に人の上に君臨するタイプなんだな。

 凡人には到達できない天性の才。

 ローズオットーのように、たとえほかの精油とブレンドしたとしても、必ず存在感を発揮する。

 誠人や翼みたいな凡人が見上げる、たった一パーセント側の人間。

 この男は、既にそこに在るのだ。

 それに気づいていないから、自分のことを「壁」なんて自称するのだろう。


 指先に、にわかに力が入る。自分を鼓舞しようとして、膝の上で拳を握った。

「俺は、しがない営業マンです」

 ようやく戻ってきた声に乗ったのは、そんな言葉だった。

「開発なんて、想像できません」

「……そんなに難しく考えることでしょうか?」

 同じような問いを繰り返す。わからないなら、それでいい。

「はい。なので、これはお返しします」

 誠人は言って、資料をスッと忍のほうに滑らせた。

「話がそれだけなら、帰りますね。お騒がせしてすみませんでした」

 席を立って、フロアが初めて濃い木目調なことに気づいた。

 そこだけに焦点を絞る。そうしなければ、視界に入るドライフラワーにおぼれそうだ。


 ブーブー……


 ポケットでスマホが振動する。あとで確認しようと思ったが、電話だろうか、鳴りやまない。

 着信相手は、翼だった。

 タイミングが悪い。でも、まだ手綱が握れたとはいえないから、出ないわけにはいかない。

「どうしたの? 手短にお願いしたいんだけど」

『仕事って、スーツっすか? 俺、持ってないっす!』

「……は?」

『お兄さんのスーツ、借りられないっすか?』

「……いや、君、俺より背高いだろ」

『一八〇センチです!』

「それじゃあ俺のスーツじゃ小さすぎて寸足らずになるよ。

 量販店なら安いのもあるから、週末に――」


 ぬんっと、背後に圧を感じた。

 思わず振り返る。


「ほう。彼のスーツですか」

 そこには、照明を背中に受け、逆光に照らされる“長身”の美形。

「あ……」

「私の着古しでよければ、差し上げますよ」

 口角が、ニッと吊り上がっていた。

 どうやっても、このローズオットーからは逃げられない。


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