12-ほんとの香りを吹きかけて
「芽衣ちゃんが、彼氏さんにお金渡したって。親の入院費代って言われたらしいんですけど、絶対嘘。恋愛詐欺だって言っても聞かないんです!」
出社するなり、あさひに泣きつかれたのは今朝のこと。
なんとか宥めて落ち着かせたが、目が真っ赤に腫れてしまって、仕事どころではなかった。
(このままじゃいけない)
翼という男を追い始めて一週間。
あれからなかなか遭遇できない。
張り込み初日に見つけられたのは、ルーキーラックだったのかもしれない。
忍も施術の予約が入っている日があり、毎日は同行できない。というか、無駄に目立つし、倫理や法律のギリギリラインを攻めるあの男はいないほうが無難かもしれない。
今日も収穫なしか。なんとか、あさひに元気を取り戻してもらいたい。
そう思ったときだった。
(見つけた!)
誠人はカフェのカウンター席を蹴った。
雑踏に紛れて男の背中を追っているうちに、ドクンドクンと心臓が早くなってきた。喉から飛び出そうだ。
男の匂いについて誠人なりの分析はできたけど、どう行動するかまでは明確な道筋を立てられていない。
だけど、二股かけて、十代の女の子からお金を巻き上げて……それは絶対に許せない。
誠人は鞄から小瓶を取り出し、ギュッと手のひらに握り締めた。誠人なりのアイテムだ。
とはいえ、殴り合いになったらどうしよう。警察を呼ばれたら……?
(ええい。出たとこ勝負だ!)
唇を舐め、ごくりと、唾を呑みこんだ。
男はまた電話をしていた。母親を労わる優しさは、きっと嘘ではない。
だが案の定、また例の女性と腕を組んで歩き始めた。
◇
「山本翼さん?」
全身が、脈打つように熱い。鼓膜までドクドク煩くて、繁華街の雑踏が、紗幕を挟んだように遠くなる。こんな緊張感、営業デビュー当時にも経験した覚えはない。
翼と呼ばれた男は一瞬ピクッと身を震わせたが、なんでもないように女性と会話を続けている。
誠人は、男の前に歩み出て、足を止めさせた。
「山本翼さんですよね?」
ちゃんと喋れているのかわからない。落ち着け、落ち着け……。
男は疑わし気に誠人をひと睨みすると「人違いですよ」と避けようとした。
無意識に、誠人の手が伸びる。男の肩を捉えた。
「ああ。覚えてないですか。
渋谷で芽衣さんと一緒だったときにお会いした、美容院のスタッフです」
今度こそ、男の肩が跳ねた。足が止まる。隣の女性は、何事かと誠人と男を交互に見やった。
「あ、あ~……?」
にわかに声が上擦っている。営業の鉄則では、相手の沈黙こそ待ちなのだが、ここは攻めるポイントではないか。
「はい。芽衣さんが、新しい彼氏だって紹介してくれた山本翼さんですよね?」
そして、勤め先と偽っている大手メーカーの名前を告げる。
「ちょっと、芽衣って誰ですか? 新しい彼氏って?」
女性は一歩進み出て、剣吞な声で問いかけた。
誠人はスマホを操作し、芽衣と顔を寄せ合ったツーショットを見せる。あさひから転送してもらったものだ。
女性はパッと男から手を離し、スマホを両手で掴みかかった。長いネイルが、誠人の手をかすめる。
写真を凝視し、女性はわなわなと震え始めた。
女性はスマホ画面を男に突きつけた。男の顔が歪む。
「浮気してたの?」
ヒステリックな女性の声が、夜のざわめきの中に木霊する。
「ご、誤解だって。元カノの写真だよ。そういうの見せたくないじゃん」
「元カノではありませんよ」
誠人が言うと、二人が一斉にこちらを向いた。
「一緒に持っているカフェのドリンク、今期の限定パッケージですよね」
通行人たちも、この騒ぎに「なんだなんだ」と注目するのを肌で感じる。
いつもの誠人なら、そういう野次馬こそ見て見ぬふりをしていた。
あの火事のときだって、面白がって写真や動画を撮る人たちに嫌悪感を覚えた。
そのときのレンズが、こちらに向いている。
急に、足ががくがくと震えてきた。
だけど、いまは逃げちゃいけない。
「芽衣さんから、お母さんの入院費としてお金を受け取ったそうですね。十代の女の子相手に容赦ない」
突如として、女性の顔が般若のようにぐにゃりと歪んだ。
「あんた……」
その女性…いや、般若は両手で男に掴みかかる。誠人のスマホが宙に飛んだ。慌てて拾い上げる。
「あんた、私にも入院費が足りないって言ったじゃない!
お母さんが病気だって言ってたのも嘘なの!?」
「嘘じゃない!」
男は叫んだ。そのまま女性の顔を両手で挟み込み、引っ付きそうなほど額を近づける。
女性は黙ってしまった。行き場のない手が胸のあたりで揺れる。
ズルい奴だと誠人は思った。
そんなふうに押さえ込まれたら、怯んで動けなくなる。
男は女性が落ち着くのを待ってから、悲痛な声で告げた。
「母さんが病気なのは嘘じゃない……」
「じゃあ、何なのよ……」
「本当にずっと入院してるんだ。嘘だと思うなら、病院で一緒に撮った写真もある。小さい頃からの写真だって」
ぼとり、と女の眦から大粒の雫が落ちた。
「じゃあ、何だって言うのよ……」
今にも漏れそうな嗚咽をこらえながら、女性は繰り返す。わなわなと口元を歪ませ、鼻をすすると……。
バチン――
盛大な平手打ちに、街頭の人たちが湧いた。
女性はくるりと誠人に向き直った。
「あなた、この人のこと知ってるんですよね。このまま警察に行きます。付いてきてください!」
「ま、待ってください」
「あなたのせいで!」
慌てて止めるが、女性は興奮でパニック状態になっている。
「この男のことは、いったん俺に任せてくれませんか?」
「はあ!そんなことして、逃げられたらどうすんのよ!」
言いたいことはわかる。
こんな仮染めの匂いが染み付いた男、信用なんかできない。
けど、あさひのためにも、芽衣のためにも、事は穏便に済ませたい。
誠人はポケットから小瓶を取り出し、二人の頭上に向かってプシュッと吹きかけた。
幼さを残した、甘いフルーティーな香りが広がる。
「……な、なに?」
予想だにしない行動に、女性は虚を突かれたようにぽつりと呟いた。
「本当は、資格もないのに、オリジナル香水を人に使うのはいけないんですけどね。
というか、人にスプレーをかけること自体、やっちゃいけないですよね」
「……」
「……」
「この男のことは、俺に任せてください。
あ、これ俺の名刺。職場も自宅もすぐ近所なので、何かあったら俺に連絡してください」
小瓶をポケットにしまい、代わりに名刺入れに乗せた名刺を、三十度のお辞儀で女性に差し出した。
呆けたような女性は無反応。ひとまずその手に押し込んだ。
「すみません。今日はこの男、お借りしますね」
誠人は男に向き直り、襟首をぐいと掴んだ。
「逃げないでくださいね」
思ったよりドスの効いた声が出た。
「……」
男は、へなへなと地面にへたり込む。
誠人はそれでも手を離さない。
女性は二、三歩たたらを踏み、近くの看板にぶつかった。その瞬間、周りの注目に気づいたようだ。頭に上った血が落ち着いたのか、ビクリと肩を抱く。
ほんの数瞬、逡巡して、
「この男、絶対許さないからね!逃げられたらあんたの職場に押し掛けるからね!」
と言い残し、隠れるように肩を抱きかかえて走り去った。
女性を見送り、周りの視線やざわめきを一身に受け止めながら、それでも誠人には、まだやることがあった。




