10-マンダリンはいつでも笑う
「尾花さん。昨日はお休みのところスミマセンでした!」
出社するなり、あさひが顔の前で両手を合わせて頭を下げてきた。
同僚たちの視線が、各人のデスクのすき間を縫って集まってくる。
「板野さん、ひとまず座ろうか。目立つから。
とりあえず仕事に集中しよう。月朝ミーティングまでに気持ち整う?」
「それは大丈夫です」
あさひは、胸の前で両手をそれぞれぎゅっと握った。
「いいね。そのメンタルは営業に向いてるよ」
励ましたところで、あさひは眉をハの字に下げて、力ない笑みを浮かべた。いつもの弾けるような香りがしない。
「あの、お昼にお時間いただいてもいいですか?」
コンビニで昼食を買い、誠人とあさひはビルの屋上に上がった。
排気孔のごうごうとした音と匂いが五感を刺激するが、肌に触れる風は気持ちがいい。
あさひはというと、日光をたっぷり浴びているのに、顔色は優れない。
「芽衣さんのこと、すごく心配しているんだね」
「……はい」
「一番気になるのは、何?」
「いろいろ…なんですよね」
遠くの空を見つめながら、あさひはぽつりと呟いた。
「あの子、悪い子じゃないんですよ。でも、ふわふわしてるし、危なっかしいって自覚ないし、そのうち本当に酷いことに巻き込まれちゃうんじゃないかなって」
忍の調べは大学入学後の範疇に留まったが、高校時代は、なんと担任教師の不倫相手になっていたらしい。
それは既に、酷いこと、なのではないか。
「未成年だったし、学校の面目もあったから、芽衣ちゃん自身はこれといって罪に問われることはなかったんですけど、相手の先生は離婚して、学校も辞めることになって……」
こちらに顔を向けないまま、あさひはおにぎりを食んだ。
「芽衣さんも、学校に居づらくなったんじゃないかな」
「フリースクールに転校しました。
けど、規律の厳しい女子高だったのが、校則らしい校則もなくなって、ちょっと派手になったかなぁ。ギャルではないですよ。イマドキのおしゃれな女の子って感じで」
忍のところに通っているのだ。美意識にうるさいあの男は、顧客の髪をケバケバしい色に染めることはしないだろう。
「新しい彼氏さん、今度こそ良い人ならいいんですけど。
って、相手のこともろくに知らないのに、こんなこと言うの失礼ですよね」
誠人のほうを見て、困ったような笑みを見せた。
(この子は、どんなときでも笑うんだな)
あさひはスーツのポケットからスマホを取り出し、誠人に見せた。
「昨日、連絡してみました」
履歴には、こうあった。
『私の先輩が、芽衣ちゃんが彼氏さんとデートしてるの見かけたらしいの。新しい彼氏さんはどんな人?』
『とっても優しいよ』
顔文字つきで、ツーショットの写真まで送られてきていた。
「これだけじゃ、判断つかないですよね」
「…………」
誠人は押し黙ってしまった。
続くメッセージは、相手が何の仕事をしているのか、どのくらいの頻度で会っているのか、既に誠人も知っていることばかりだ。
「この写真で画像検索にかけてみたんです。でも、彼氏さんらしい人、ぜんぜん出てこなくて」
「そこまでやったんだ」
「だって心配で……。彼氏さんSNSでもやってないかなって。芽衣ちゃんも、男性関係はトラブル続きだって自覚はあるみたいだから、SNSには自撮りを載せないんですよ」
風が吹いて、誰かがポイ捨てしたのだろう、カンカンと音を立てて、空き缶が転がった。
夜の雑踏の中で見聞きした話をするべきか、誠人は缶コーヒーの飲み口に唇を当てたまま、しばし考えた。
心配の種を増やすだけかもしれない。
けれど、このままでは不安が募るだけかもしれない。
腕時計の秒針だけが、寸分のズレもなく進む。
正解は、どっちだ……。
誠人はぐいと缶コーヒーを飲み干した。
長針が、カチリと動く。
「あのさ、俺も黙ってたことがあるんだけど……」
誠人の話を聞いて、あさひの顔からみるみる血の気が引いていった。オレンジ色の太陽はそこにはない。
「そんな……それって、また二股相手にされてるじゃないですか!しかも内容が不穏すぎます。もしかして恋愛詐欺なんじゃ!」
ヒステリックな声に、誠人の胸に鉛がずんと圧しかかる。
“恋愛詐欺”。
あの夜の会話から、誠人もそうなんじゃないかと察していた。
だけど、言葉にするのは怖かった。
そんなのはドラマや小説の中だけ。自分には関係ない、遠い世界の話だと思っていたし、思いたかったのだ。
「ごめん。なかなか言えなくて」
地面に目を逸らし、誠人は小声で言った。
「あ……いえ、こちらこそ。尾花さんが悪いわけじゃないのに……」
排気孔のごうごうとした音が、大きくなって耳に届いた。
あさひは口を歪めてから、決意したように誠人を見据えた。
「芽衣ちゃんに、話します。そんな人とは別れたほうがいいって」
真剣な眼差しは揺れている。誠人は締め付けられる喉を、なんとか開いて言った。
「だけど、芽衣さんってちゃんと聞き入れるタイプの子? 傷ついたりしない?」
「それは……」
言い淀んで、あさひは膝に顔をうずめた。
「ごめん。意地悪言ったよね」
顔を上げず、あさひは首をゆるゆると左右に振った。
怪しい布石なら既にある。
サロンにいたときに入ったメッセージ。
あれは、そのうち「母親の入院で金が要る」「手術代が足りない」とでも持ち掛ける地ならしかもしれない。
「それでも、芽衣ちゃん自身は危なっかしいだけで、ほんと悪い子じゃないんですけど……というか、もう素で話しますけど――!」
あさひは、フンッと鼻を鳴らして、肩をいからせた。
「あの子のバカ! なんでそういう危ない男にばっか引っ掛かるのよ!
顔がいいとか、甘い言葉だけで優しいとか、そんな上っ面に騙されるなんて、ほんとバカ!」
にわかに、あさひの顔が気色ばんだ。
虚を突かれて、誠人は一瞬ぽかんとした。
だけど……くつくつと、腹の底から込み上げるものがある。なんとか堪えようと体を折るが、ダメだ。
「あっはは。そっちのほうがいいよ」
「もう、笑わないでください!こっちは真剣なんですよ!」
「わかってるよ。俺だって芽衣さんのことは心配だし」
膝を抱えたままのあさひは、同意する誠人に上目遣いで顔を向けた。
「なに?」
「尾花さんって、本当に優しいですよね」
にぱっとした、太陽の光をいっぱい浴びたマンダリンの笑顔が戻ってきた。
胸の奥が、ドクンと脈打つ。
「そ、そうかな」
「はい。だって、一回しか会ったことのない子のこと、こんなに真剣に考えてくれて」
そう言われてしまうと、後ろめたい。マスク姿を含めると既に三回に会っている。
「あ、そうだ。私、尾花さんがその男を見かけた辺りで、張り込みしてみます!」
人差し指を立て、「ナイスアイディア!」と目を輝かせるあさひに、誠人は気圧され、背中を反るような形で、距離を取ってしまった。
そして、思った。
フレッシュな、弾けるようなマンダリン。
そうだった。香りが強い人は、押しが強いんだった……。
とはいえ……。
「板野さんはダメ――」
誠人は真剣な顔で言い切った。
「女性にそんな危ないことさせられない。俺が何とかするから!」




