1-化繊を炙る火種
事の始まりは、嬉しくもない取引先との飲み会を終えた帰り道。
入社二年目、今年から新卒の後輩ができていい顔を見せたい気持ちもあった。
まったく飲めない女性社員の代わりに、黙々とビールを消費していたら、取引先と同僚を見送ったあと、急に世界が回り始めた。
遠ざかる意識の奥で、繁華街にしてはやけに星空が白い……あ、これはまずいやつだ、と二つの思考が同時進行――。
薄暗い横道に入り、冷たくザラザラした壁に背を預けて、落ち着くまでやり過ごそうとした。
「火事だ!」
飛び込んで来た大声と共に、背中側がじりじりと熱くなる。
(おいおい、まさか……)
紗幕を一枚挟んで視界に映るメインストリートでは、ネオンの中に悲鳴が木霊し、人々が狼狽してぶつかり合っている。それでも、一人がスマホで動画撮影を始めると、誰も彼もがそれに倣った。
その様子に酩酊とは違う気分の悪さを覚え、ゆっくりと通りへと足を引きずった。
煤けた煙の中から、火の粉が飛んできた。
「あっちちッ!」
左腕に直撃し、化繊のジャケットにチリチリと火の波紋が広がった。慌てて脱ぎ捨て、地面にばっさばっさと叩きつける。
ただの吊るしのスーツだが、これは懐が痛い。
物理的には手が痛い。
救急隊は来ているのだろうか。
いや、こんな軽傷で大騒ぎにもなりたくない。
とはいえ、酩酊と合わせて看てもらったほうが身のためかもしれない。
そのときだった。
「大丈夫ですか?」
落ち着いたテノールの声が、群衆をかき分けスッと耳に届いた。
見やると、そこにいたのは、まごうことなき美形の男。肌は陶磁器のように白く、切れ長のアーモンドアイ。くしゃりとした髪は柔らかそうだ。鼻筋は高く、左側に受ける炎の灯りが、右頬に影を落としていた。
「怪我をされたのでは?」
「あ。いえ……」
大したことはないと言おうとしたら、救急隊が到着したようだ。
男が「ここに火傷をされた方がいます」と少しだけ声を張ると、モーゼのように人垣に一本の道が出現した。大きな声でもないのに迫力がある。
そうか、これが“オーラがある”というやつか。
救急隊員との問答のあいだ、しばし様子をうかがっていた男だったが、そっと人に紛れて暗闇に溶けていった。
いったい何者だったんだろう。
まるで精油の最高峰といわれる、ローズオットーのような、他者を寄せ付けないような存在。
二度と会うことなんてない、違う世界の人間と思っていた――