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香中忍のサロンと調香師の観察【第4章】朝6時更新  作者: 水野沙紀
【第2章】合成香料まみれの若者
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7-流れて消えゆく香り

 「残念でしたね、忍さん」

芽衣を見送ってスタッフルームに戻るなり、誠人は言った。


「何がですか?」

「芽衣さんの彼氏の自称翼さん。絶対に勤務先について嘘ついてますよ。

 というわけで、俺の潜入捜査はなくなりました!」

中性洗剤でディフューザーを洗いながら、誠人は胸を張る。


 そもそも普通の会社員がそんなスパイの真似事なんかできるわけない。


「ですが、明日の待ち合わせ場所はわかりました」

「は、なんで?」

「スマホの画面というのは、意外と美容師からは丸見えなんです」

「だからって覗くなよ!」

スポンジをギュッと握りしめてしまい、泡が飛び散る。


 顔にかかった忍は、黙って未使用タオルで顔を拭いた。

 汚いものを見るような目で誠人を睨んでいるが、誠人のほうこそ、この男の倫理観を問い質したい。


「明日は十二時頃に来てください。ヘアセットをしたあと移動して、十三時に渋谷ハチ公前に到着しましょう」

「はい?」

「マスクはして結構です。そうですね……」


忍は目を細めて天井を仰ぎ、じっと何か考えた。


「ひとまずは、たまたま再会したというていにしましょうか」

「ちょっと待て」

洗剤まみれの平手を突き出し、言葉を制しようと試みる。


 だが、突如として忍が纏う空気がスッと下がった気がした。誠人は思わず手を引っ込める。


「土日は休みですよね?」

相手を侵食する空気は徐々に広く、冷え込んでくる。言葉自体は穏やかなのに、長身の高い位置から放たれた鋭利な物言いに、ごくりと生唾を飲みこんだ。


 一拍おいてから、誠人は言った。

「……俺、ナンパもできませんよ」

「ナンパではありません。

 その男を近づけさせない防波堤になればいいんです」


そう言った声は常になく低い。


「…………」

琥珀色の瞳が、誠人を捉える。思わず体をのけ反らせるものの、目が離せない。


 喉の奥が詰まるのを感じながら、誠人は振り切るように体をひねり、黙って手元の作業を再開した。


 忍もしばしその様子を見据えていたが、黙って使用済みタオルを回収業者用の洗濯ボックスに閉まっていく。


 器具の水気を切るキッチンペーパーの音が、カサカサと割って入る。


「なんで、そこまでするんですか……」

沈黙に耐え切れなくなり、かぼそい声で、誠人は尋ねた。

「……」

「言ってしまえば、芽衣さんってただの客ですよね。

 そりゃあ、危なっかしくて心配になるのも、人情としてわかりますよ。

 けど、俺のバイト代だって掛かってるわけで、施術料金に対して割に合わなくないですか?」

「…………」


忍は答えない。端正な顔のまま、また天井を見上げ、しばらくそうしていたかと思ったら、諦めたようにゆるゆると頭を振る。どんな言葉を選べばいいか、窮しているようだ。


「……誠人くん」

先ほどとは違う、いつものテノールボイスに戻っていたが、却って背中にぞくりと冷たいものが走った。


「わかりました。明日は無理に出向いていただかなくて結構です。

 私一人でその男に会ってみましょう」

「そ……」

一瞬、声が喉でせき止められる。急に美容院特有の薬剤の香りが強く鼻についた。精油の最高峰たるローズオットーの香りが、感じられない。


 ああ。「壁」だ。見えない壁が、そこにある。


「そうですか…」

蛇口から流れる水が、排水溝に吸い込まれていく。芳香浴に使ったアンバランスな香りも、指先の残り香も、すっかり洗い流されてしまった。



 「はぁ~~~~」

帰宅後、誠人は寝室に直行し、腹の底から膿を吐き出すよう、思いっきりベッドにダイブした。


 調香のアルバイトは忍に押し切られた形だが、初回は役に立てたことが純粋に嬉しかった。


 芽衣に関してはどうなのだろう。

 職場の後輩の幼馴染。身バレするかもしれない。

 二股だけじゃない。それ以上にヤバそうな気配もある。

 可哀想……だとは思う。


 ぼんやりと考えながら寝返りを打った。


 だけど、平穏に生きるには、当たらず触らず、目立たずしたたかに。それが最大公約数のはずだ。

 姉のように、ずば抜けた探求心も知力もなければ、それに向かって努力するエネルギーもない。


 だから、大学に入って、就職して、営業職としてスキルをつけて。一回くらいは給与アップを狙って転職するかもしれない。そのうち婚活して結婚して……。


 それでいいではないか。


 何のアロマも焚いていない、残り香だけの室内。なのに、記憶の底から、体中を包み込むようなラベンダーの香りが蘇る。


――香りってね、ひとの心に残るんだよ。

――そして、ひとの心に寄り添って、紐解いてくれるの。


 ぎゅう…と、うずくまるよう枕を抱きしめた。

 何が「紐解いてくれる」だ。自らをかんじがらめにしてくるではないか。


 今度は、一歩身を引きたくなるような、堂々たる香りが鼻の奥に広がった。


 あのローズオットーの男は、いったい何を考えているのだろう。

 なぜ誠人を雇おうと思ったのか、説明しようとしてくれるが、言葉選びが下手すぎてまったく伝わってこない。


 芽衣の両親は離婚……か。

 あさひなら、このことを知っているだろうか。


 枕元に放り出したスマホを手に取り、あさひとのチャット画面を開く。

 飲み会のあとに交わした、慣例的なやり取りで終わっている。

「…………」

しばし画面と睨めっこしたのち、またスマホを放り出した。


 翌日十二時。

 気づくと、Garden Therapy -SHINOBU-の前に立っていた。

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