1-見つめる先はマンダリン
大学時代はそれなりにアルバイトもサークル活動もして、普通に就活して、どこにでもいる会社員として、及第点の生活を送っていた。それが突如として崩された。
「壁」を自称する聞き役、だけど精油の最高峰といわれるローズオットーのような美形によって。
高貴かつ圧倒的な存在感を放つその香りは、一歩引いてしまうところもあるが、どうしたって抗えない引力を持つ。
だけど、まがい物で構成された合成香料よりはずっとましだ。
嘘や欺瞞、汚いものに蓋をするよう、匂いで匂いをごまかす。そんな付け焼き刃な人よりずっと筋が通っている。
そうやって適度な人間付き合いをして、面倒事は避けてきたから、これからも荒事のない生活が続いていくと思っていた。
それなのに、合成香料にまみれた若者の“香りの核”を追跡する日が来るなんて……。
◇
「尾花さん、火事に巻き込まれたんですよね。大丈夫でした?」
亜麻色の髪をゆらして顔を覗かせたのは、新卒入社してきた後輩。板野あさひ。
まだまだ真っ黒なリクルートスーツが眩しい新人で、誠人のチームに配属された一人だ。歳が近いこともあって、懐いてくれている。
「ありがとう。怪我自体は大したことなかったよ。すぐに救急搬送してもらったからね」
「うわぁ。救急搬送……聞いただけでゾッとします」
誠人にとっては、その率直な明るさが微笑ましく映った。名前のごとく、太陽の光をいっぱいに浴びて育ったマンダリンのようだ。オレンジともレモンとも違う、柑橘系ながらも温かみのある香り。
女性の髪型がどういう仕組みになっているのかはわからないが、顔周りがふわりと膨らんでいるのが、小ぶりな顔を包み込んでいるようで愛らしい。
最近は先輩や上司がワラワラと寄って集って、「お前大丈夫だったかよ」なんて背中を叩いて行く。令和だからといって、営業職に従事する男たちの昭和感は拭えない。
そんなやり取りにウンザリしていただけに、あさひの存在は一服の清涼剤……もとい、一滴の精油のようだ。
「そうだ。訪問先のお見積もりは印刷してあるよね?」
「え、印刷?」
あさひは慌ててメモ帳をめくり始めた。
「えーっと。あ、これですね。先方にお伺いするときは、念のため書類はすべて印刷しておく」
見つけた! と、顔を上げた瞬間、じゅわっとフレッシュな果汁が弾け飛んだ。
「そう。プリンタの使い方は大丈夫そう?」
「それはバッチリ覚えました」
「よし。じゃあよろしく」
誠人に言われてパソコンに向かうあさひは、画面に向かって手を動かしながら、ツンと唇を尖らせた。
「それにしても、いちいち印刷しなきゃいけないなんて、エコじゃないですよね。SDGsはどこ行ったんですか」
新卒でそういう言葉が出てくるあたり、しっかりと入社試験の勉強をしたんだろうな、と思いながら、誠人は苦笑した。
「仕方ないよ。うちの会社って古いし頭硬いし、そういうのが礼儀だと思ってるからね」
「はぁい」
プリンタに駆けて行くあさひの背中を見送りながら、誠人は漫然とオフィス内を眺め回した。
新卒が入ってにわかに浮足立っているが、どこか色褪せて雑然としているのは変わらない。
島並びになったデスクの上、天井からは部署名がぶら下がり、味気ないスチールデスクは、各人が思い思いに飾り立てている
社歴の長い人ほど、机が汚くなるのはどういう節理なのだろう。
ブブ――
デスクに放り出していた私用携帯が震える。
(げ……)
ポップアップには、見たくなかった名前と、メッセージが……。
『今週の土曜日、アルバイトをお願いします。以下、お客さまの情報をお伝えします』
紹介制美容院、«Garden Therapy -SHINOBU-»の香中忍からの連絡。有無を言わさぬ出動命令だ。
アロマ男子バレして、不定期でいいから調香師としてアルバイトをしてほしいと言われ早数日。たしかに土日休みとは伝えた。
だが、こっちの予定の確認はしないのか!と、画面に向かってツッコミたくなる。
もしかしたら彼女がいるかもしれないではないか。
(いまはいなくても、週末までにうっかりいい雰囲気に……なる可能性は……)
誠人はプリンタ脇で資料を束ねるあさひをチラリと盗み見た。胸の奥で、ため息を押し殺す。
「おーい尾花〜」
冷やかすようなコソコソ声が、背後から忍び寄ってきた。四年先輩の営業のエースだ。
誠人はスッとスマホを胸ポケットにしまう。
先輩は誠人の肩に手を置き、さらに耳に顔を近づける。
「お前も板野さん狙いか〜。今年一番人気だよな。尾花に同行させてるけど、俺の下で面倒みてやったほうが、勉強になるんじゃないか」
「なに言ってるんですか、先輩はほかのチーム掛け持ちで手いっぱいじゃないですか」
心を見透かされないよう、平静を装って話を逸らす。
「今日は移動多いんで、俺もう行きますからね」
「おう。行ってら〜!」
バシン、という平手を背中に受けて、誠人は席を立った。
今日という日も、いつもの営業活動。そんな日常が繰り返されるはずだった――