エピローグ-ローズオットーは経費で
スタッフルームにて、後片付けをする忍の傍ら、誠人もディフーザーを洗浄して、持参したキッチンペーパーでていねいに水気を拭いた。
「今日は助かりました」
「あ。いや、スミマセン。なんか俺、しゃしゃり出ちゃって……」
個人店の店主と常連客、そのあいだには、十分カットのチェーン店とは違う、もっとずっと親密な関係性が見て取れた。
なのに割り込んでしまったことに、じわじわと後悔の念が湧いてきていた。
「……あなたには、驚かされてばかりです」
「スミマセン……」
「責めているのではありません。何より、急な依頼をしたのは私ですからね」
「はあ……」
だったら、何に驚いたのだろうか。
「お仕事は営業職と言っていましたね。何の営業をしているんですか?」
「俺はしがないオフィス器具のレンタルですよ。ほかの部署では違う商材や個人向けも扱ってますが。
下請けや営業代理店みたいなもんなので、吹けば危うい仕事です」
蓋つきプラスチックの即席アロマボックスに、小分け収納しながら誠人は答える。
「アロマ関係のお仕事をしようとは思わなかったのですか?」
「ん~……まあ、正直いって給料高くない世界だし、だったら潰しが利く営業かなって。
姉がバリバリのそっち系なんで、その……なんていうのかな……」
――劣化版。
いくら職業に貴賎はないとはいえ、世界を股にかけて活躍している姉と比べたら、素養も才能も違いすぎて、足元にも及ばない。
海外でアロマの仕事に就くと張り切っていた姉は、外語系の大学で、英語・フランス語・スペイン語の三カ国語を習得して旅立って行った。
小さい頃はわからなかったが、それがどれだけすごいことか、大学進学を視野に入れる高校二年生の冬に、ようやく理解した。
「もったいない」
「そうですかね」
「はい。私は、人の話を聞き出すことは得手…というより、なぜか相手のほうがどんどん話してくるのですが、あなたは潤沢な知識もあれば、観察眼にも長け、何よりきちんと物事を整理して相手に伝える術を持っています」
「それは、一応営業で鍛えられたからですよ」
突然の誉め言葉に、誠人は苦笑して返す。
「どうしてそんなに謙遜するのかは、理解に苦しみます」
「いやいや。普通ですから」
「相手の気持ちを汲み取って、寄り添ってあげられるのは、美徳ですよ」
「それは、店長さんこそ。
どういうわけか、店長さんって、人に何でもかんでも話させちゃうオーラを持ってますよね」
見ているだけだとオーラがありすぎて近寄りがたいが、話してみると、そのテノールボイスも落ち着いた話し方も心地いい。
営業としてのセールストークを学べば、トップセールスに踊り出そうな逸材だ。ただし、成績がものをいう世界なので、同僚にはいてほしくない。
「忍です」
「え?」
「香中忍。お客さまからは、下の名前で呼ばれています」
「……忍さん?」
「よくできました」
「はぁ……」
(よくできましたって、子ども相手じゃないんだから……)
軽口を交わしていたはずが、このサロンに無理やり連れて来られたときのような、押しの強さが戻って来たような気がした。
「ところで、お勤めは平日ですよね」
「はい。普通の会社員なので、土日祝休みの九時、十八時です。ときどき飲み会はありますが、平凡バンザイです」
「なるほど」
忍は作業していた手を止め、スッと目を細めて誠人を見据えた。
「……なんですか?」
「…………」
「…………」
沈黙は、困る。何か答えてほしい。
「不定期で結構です。今後もアルバイトとして入ってください」
「え?」
「お話したように、私は話を聞くのは得手としていますが、相手に対してこれといった助言をするのは、得意ではありません。言ってしまえば、私は壁なんですよ」
「壁?」
「はい。壁です」
……真顔で何を言っているのだ、この男は。
どう考えても薔薇だろう。
蝶や蜂が吸い寄せられるように、この男のところへやって来て、本性を晒してしまうのだ。
「ですから、あなたのようにハッキリと問題解決をしてくれる人材がいると助かります」
「いやいや、ちょっと待て」
思わずタメ語が口を突いて出た。
「そんな大そうなこと求められてもムリですよ。今日の猫のことだって、たまたま似たような話を知っていただけで、俺にはアロマを焚くくらいしかできませんよ」
「それで結構です。
何より、あなた、私が話を聞いているときに、切り込まないからと鬱憤を溜めていたではないですか」
「……え」
たしかにそうだけど、背中を向けていたはずだ。なぜわかった。
「鏡越しに丸見えでした」
誠人の考えを見透かすように言う。たしかに、誠人からも二人の姿は見えていたのだから、それも納得だ。
「なので、私が黙々と壁を続けていると思ったら、横から入ってもらえると助かります」
「そう言われても……」
誠人は頭を抱えて考えた。物理的に、額に手を当てて。
「いまどき副業は禁止ですか?」
「そういう問題じゃありません」
改めて冷静に考えてみるが、やったことといえば、アロマを焚くこととお喋りだ。
そりゃあ、今日だって普段やらないブレンドを試せて楽しかったが、そんなのは趣味の延長。美容院の仕事なんて何にもできない。掃除くらいはできるだろうか。
売上成績を毎日掲げられるような営業の現場にいると、そんなことで賃金をもらっていいものか、と職業倫理との衝突も感じる。
プルルルル――
「失礼。少し待っていてください」
忍は一言告げて、通話ボタンを押した。話ぶりからして、予約の電話のようだ。
(……なんか嫌な予感がする)
受話器に向かう忍を尻目に、誠人はいそいそと荷物を持ってスタッフルームを出た。
バイト代は既にもらっている。もうここに用はない。
ソファに置きっぱなしのボストンバッグに、即席アロマボックスをしまっていく。
背後に、ぬっと人の気配……いや圧を感じた。
「お待たせしました」
(待ってない!)
振り返ると、忍がタブレットを片手に、口角を上げていた。
チラリと見えた画面に映る写真は、どう考えても市川とは別の人だ。
「あの、俺バイトするなんて言ってませんからね!」
バッグを肩に掛けて店を後にしようと扉に向かうが……しかし、忍の次の言葉に、誠人は白旗を上げることになる。
「今後使う精油も備品も、すべて店の経費で落ちますよ」
後ろ髪を引かれ、ぎりり…と後ろを振り返る。
さすが、精油の最高峰ローズオットーたる男。
新卒二年目。まだまだ低所得の会社員に、これほどの甘い誘惑は……ない。
「この店の備品ですからね」
無表情だった忍の陶磁器のような顔に、満開の薔薇のような極上の笑みが浮かんでいた。
どうしてこうも、香りの強い人は押しも強いのだ。
……絶対、経費でローズオットー買ってやる。
【ローズオットー】
一ミリリットルあたり、最低価格「約一万円」。
小指の爪程度の小瓶。
-第1章END-