9-悲鳴を上げる犯人
「あ、あのスミマセン。俺、急に話に割り込んで」
思いのほか、二人の反応がこちらに集中してしまい、誠人は慌てて立ち上がった。
「えっと、市川さま、先月マンションから戸建てにお引越しされてますよね?」
取りつくろうよう、明るい声で問いかける。
「え、えぇ……」
震えは治まったようだが、まだ肩を抱いている。
「市川さまは、ご実家もマンションでしたか? けっこう高層階の?」
「はい。十階建ての、七階に住んでました」
「戸建てに住まわれるのは初めてですか?」
「そうです」
「それでしたら……」
「――――」
言いかけた誠人に、忍は目顔で近くに来るよう促す。
「し、失礼しました!」
忍が、施術台の横に木製の折り畳み椅子を用意してくれた。
なるほど。立っているとお客さまを見下ろす形になってしまう。誠人は椅子に浅くちょこんと腰かけた。
小さく咳払いをしてから、話をまとめ始める。
「市川さまが、戸建てのお住まいに引っ越しをなさったのは、先月なんですよね?」
「はい。あの……まさか家に何か憑りついているなんて言わないでくださいよ」
疑わし気な市川に、誠人はゆるりと首を振った。
「そうだったら、家を販売したメーカーに賠償を請求して、新しい家を用意させてやりたいところですが……」
俗物的な物言いに、市川はふっと力ない笑みを浮かべた。よかった。話は聞いてくれそうだ。
「戸建てに住むのは初めて、で、お間違いないですか?」
「はい。先ほども言ったように、実家はマンションでしたし、会社も実家から通ってました。結婚前に夫と同棲を始めたときに、マンションを借りて。
今年になって、やっと念願の戸建てを購入したんです」
「以前お住まいのマンションも、高層階でしたか?」
「五階だったから、それほど高層というわけでも……」
それでも、十分地面からは離れている。
これで合点がいった。
誠人は、安心させるように笑みを深めた。
「わたしの実家は戸建てだったんですが、子どもの頃に、同じように外で赤ちゃんが泣いていると思って、大慌てで寝ている姉を起こしたことがあります」
「え?」
「そしたら、姉には『美容に悪い!』と怒られたんですけど……」
「はあ……」
「そのときに教わったんです。その声について」
市川は、息を詰めて誠人を凝視した。
「おそらく原因……いえ、犯人は、猫です」
「……え?」
「発情期の猫は、夜になると、悲鳴みたいな鳴き声をあげるんですよ」
「…………!」
市川の顔が、驚きに染まった。
その後ろで、忍はゆるりと握った手を顎に当てている。
「……猫?」
「はい。もしかしたら、お庭や窓の近くに、入り込んでいるのかもしれません。
それか、窓から見える場所に猫がいて、息子さんがご覧になったのではないでしょうか。
また会いに来てほしくて、窓に向かってティッシュで『おいでおいで』をしているのかと」
「…………」
市川は、唖然としつつも、ゆっくりと、二度、三度と頷いた。その頷きは、回数を重ねるたびに大きくなる。納得がいったようだ。
「そう…かもしれません。
息子をベビーカーに乗せていたときに、すごい暴れたことがあったんですよ。
なんだろうって、息子の視線を追ったら、焦げ茶色の猫がいたんです」
「ご自宅のすぐ側だったのでは?」
「そうです、そうです!」
「猫って、気まぐれにあっちこっちに移動するように思われてますが、実は縄張りってそんなに広くないんです。なので、ご自宅の近くに住処があるのかもしれませんよ」
「そうなんですね……」
意外そうに、だけど得心したように、安堵のため息を漏らした。肩が下がるのが見てとれる。
「息子さんと、その猫を探してみるのも楽しそうですね」
「……そう、ですね」
強張っていた市川の表情も、少しずつ解けていくようだった。
チラリと忍に目配せすると、誠人にだけ見えるよう、小さく頷いた。
誠人はディフーザーの出力量を上げて、「失礼します」と椅子を持って下がった。
入れ替わるように、忍がスッと市川の後ろに立つ。
市川の頭を固定し、髪に櫛を入れる。
「……忍さん、ありがとうございます」
ぽつり。市川は呟いた。
その言葉は、忍に向けられたものだが、たしかに誠人への感謝の意が込められている。
それでも、店主は……主役はあくまで忍。
市川の相談相手は忍であって、誠人はサポート。この花園の主は忍なのだ。
「そう言っていただけて何よりです」
忍は改めて櫛とハサミを手に取った。
二人のあいだには、しばし沈黙が下りた。
その姿を、誠人は秘密基地のようなソファに腰かけ、ただ遠巻きに見守った。
カットが終わり、ケープに手をかけたところで、市川が顔を上げる。
「忍さん」
「はい。なんでしょう」
「時間があれば、メニュー追加してもいいですか?
久しぶりに、黒じゃなくて、焦げ茶色にします」
そして、身をくるりとねじって、誠人に声をかけた。
「今度、息子と一緒に猫を探しに行っているわ。
といっても、発情期の猫なら、さすがにうちでは飼えないかもしれないけど、見るだけでも、息子も喜ぶかもしれないから」
にぱっとした晴れ晴れしい顔には、生来の真っ直ぐさがうかがえた。
誠人の鼻腔を通して、じんわりと、温かい香りが胸いっぱいに広がった。