8-色褪せるドライフラワー
「はぁ~久々にこんな贅沢してるわ~」
施術台にセットされた自分だけの芳香と、無駄のない忍の手さばきに、市川はとろんとした声音で息を吐いた。
「ずいぶんお疲れのようですね」
「……そうなのよ」
だが、それも一瞬。暗い影が顔に落ちる。
誠人は施術台の鏡越しに、その様子をうかがっていた。
調香してディフューザーをセットしたけれど、よく考えたら施術のあいだはやることがない。ここにいる意味はあるのだろうか。
もっとも、私物のディフューザーを貸し出しているわけだし、終わるまで待たなければいけないのだが……。
(やることがない……暇だ……)
手持ち無沙汰が気になって、何の気なしにタブレットに手を伸ばした。
カットやカラー剤のオーダーなんかは、見たところでわからない。だが、カルテにはその日の雑談内容、家族構成、仕事、交友歴なんかも書かれていて……本当にプロファイルみたいだ。
誰にも見せないし、本人も読み返すことはないと言っていた。
いったい何が目的で、こんなものを作っているのだろう……?
当の市川はというと、ずっと近況報告ばかりで、なかなか本題に入らない。
忍も忍で、会話を転がすのはうまいが、それ以上の切り込みができない。
営業の鉄則――
『相手の悩みや痛いところを聞き出し、それを解決するための提案をするべし』。
それがセールスを担う誠人がこの一年で叩き込まれた営業スキルだ。
まだまだ覚束ないが、忍のずっと聞き手に回るスタンスには、ジリジリしてしまう。
(あれ……)
カルテの一カ所に目が留まった。
「なるほど。では、お子さまは、引っ越してから様子が変わったと」
「そうなんです……。
そりゃあ、まだ二歳ですからね、最初は『これが先輩ママたちの言っていたことか!』って……。
もちろんゲンナリはしましたけど、SNSでも動画でも見てたし、そのときはカッとなっても、まあなんとか。
だから……その延長なのかなっても思うんです。
そう思うと、余計に、気にし過ぎなのかなって、ママ友や職場の先輩にも、それ以上のことって、なんか言えなくて……」
勢いよく話していた市川の声が、しだいにしぼんでいく。
「それ以上のこと、とは?」
「…………一カ月前くらいから、です」
誠人は再び手元のカルテに目を落とした。
一カ月前――
引っ越し。たしかに大きな変化だ。だけど、それ以上に気になるのは部屋番号……。
「息子ってば、窓に向かってティッシュを投げるんですよ。それも、いっつも同じ窓辺に座って。
それに、窓をバンバン叩くんです……ッ」
市川の声が詰まった。
「ま、前の家ではそんなことなかったのに、引っ越してから、急に……」
ぐしゃりと歪んだその顔は、いまにも決壊しそうなのを、必死でこらえているようだ。
「それは、環境の変化で、お子さまもまだ戸惑っていらっしゃるのでは?」
「けど、それだけじゃないんですよ!」
市川の声が、悲壮感を帯びてキーンと高くなる。
市川は一瞬だけ顔を上げると、もう一度視線を落とし、口元をもごもごさせる。話していいのいか、本当に迷っているようだ。
「ここは。花園にいるドライフラワーたちには、聞く耳も、話す言葉もありません」
ずいぶん気取った言い回しだ。テノールボイスのせいで無駄に芝居がかって聞こえる。
だが、市川は意を決したように、こくりと頷いた。
「夜になると、声が……」
「声?」
「そ、外で、赤ちゃんが悲鳴を上げて泣き叫ぶような声が聞こえるんです。夜泣きとかじゃなく、というか、どこかの家の中というより、外から……!」
(え、それって……)
「外…というと、家の前の通りということでしょうか?」
「そう、そうなんです!それで、何かあったんじゃないかと思って外に飛び出たんですけど、誰かがいた気配があって、でもよく見えなくて。
声も、私が近寄ったら急に消えてしまって……」
市川が、ケープの中で肩を抱く。カタカタと身震いし始め、忍はハサミを遠ざけた。
サロン内の温度が、急激に下がっていく。
ドライフラワーたちまでもが、急に枯れ尾花になったように静まりかえる。
誠人は、息苦しさに、肺が圧迫されるのを感じた。
「夫は寝ていてぜんぜん気づいてなくて。
幻聴なのか、とも思ったんですけど。そんなふうに思う自分もイヤで。
だって、幻聴なんて、いくら職場復帰したばかりだからって、そんなことでって呆れちゃうし、もっと頑張っているママさん、たくさんいるのに……」
ああ。この人は、本当に芯の強い人なんだな。
自分が追い詰められていることすら、受け入れられないほどに。
そうやって思えば思うほど、人はどんどん底なし沼にハマって、抜けられなくなってしまうというのに……。
「――幻聴なんかじゃないと思いますよ」
ぽつりと零した誠人の声は、静寂に満ちた店内に、スッと一本の旋律を奏でた。
鏡越しに、忍と市川の視線が誠に集まる。