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香中忍のサロンと調香師の観察【第4章】朝6時更新  作者: 水野沙紀
【第1章】ローズオットー級の美形
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8-色褪せるドライフラワー

 「はぁ~久々にこんな贅沢してるわ~」

施術台にセットされた自分だけの芳香と、無駄のない忍の手さばきに、市川はとろんとした声音で息を吐いた。


「ずいぶんお疲れのようですね」

「……そうなのよ」

だが、それも一瞬。暗い影が顔に落ちる。


 誠人は施術台の鏡越しに、その様子をうかがっていた。

 調香してディフューザーをセットしたけれど、よく考えたら施術のあいだはやることがない。ここにいる意味はあるのだろうか。


 もっとも、私物のディフューザーを貸し出しているわけだし、終わるまで待たなければいけないのだが……。


 (やることがない……暇だ……)


 手持ち無沙汰が気になって、何の気なしにタブレットに手を伸ばした。

 カットやカラー剤のオーダーなんかは、見たところでわからない。だが、カルテにはその日の雑談内容、家族構成、仕事、交友歴なんかも書かれていて……本当にプロファイルみたいだ。


 誰にも見せないし、本人も読み返すことはないと言っていた。

 いったい何が目的で、こんなものを作っているのだろう……?


 当の市川はというと、ずっと近況報告ばかりで、なかなか本題に入らない。

 忍も忍で、会話を転がすのはうまいが、それ以上の切り込みができない。


 営業の鉄則――

 『相手の悩みや痛いところを聞き出し、それを解決するための提案をするべし』。


 それがセールスを担う誠人がこの一年で叩き込まれた営業スキルだ。

 まだまだ覚束ないが、忍のずっと聞き手に回るスタンスには、ジリジリしてしまう。


(あれ……)


 カルテの一カ所に目が留まった。


「なるほど。では、お子さまは、引っ越してから様子が変わったと」

「そうなんです……。

 そりゃあ、まだ二歳ですからね、最初は『これが先輩ママたちの言っていたことか!』って……。

 もちろんゲンナリはしましたけど、SNSでも動画でも見てたし、そのときはカッとなっても、まあなんとか。

 だから……その延長なのかなっても思うんです。

 そう思うと、余計に、気にし過ぎなのかなって、ママ友や職場の先輩にも、それ以上のことって、なんか言えなくて……」


勢いよく話していた市川の声が、しだいにしぼんでいく。


「それ以上のこと、とは?」

「…………一カ月前くらいから、です」


 誠人は再び手元のカルテに目を落とした。


 一カ月前――


 引っ越し。たしかに大きな変化だ。だけど、それ以上に気になるのは部屋番号……。


「息子ってば、窓に向かってティッシュを投げるんですよ。それも、いっつも同じ窓辺に座って。

 それに、窓をバンバン叩くんです……ッ」

市川の声が詰まった。


「ま、前の家ではそんなことなかったのに、引っ越してから、急に……」


ぐしゃりと歪んだその顔は、いまにも決壊しそうなのを、必死でこらえているようだ。


「それは、環境の変化で、お子さまもまだ戸惑っていらっしゃるのでは?」

「けど、それだけじゃないんですよ!」

市川の声が、悲壮感を帯びてキーンと高くなる。


 市川は一瞬だけ顔を上げると、もう一度視線を落とし、口元をもごもごさせる。話していいのいか、本当に迷っているようだ。


「ここは。花園にいるドライフラワーたちには、聞く耳も、話す言葉もありません」


 ずいぶん気取った言い回しだ。テノールボイスのせいで無駄に芝居がかって聞こえる。

 だが、市川は意を決したように、こくりと頷いた。


「夜になると、声が……」

「声?」

「そ、外で、赤ちゃんが悲鳴を上げて泣き叫ぶような声が聞こえるんです。夜泣きとかじゃなく、というか、どこかの家の中というより、外から……!」


 (え、それって……)


「外…というと、家の前の通りということでしょうか?」


「そう、そうなんです!それで、何かあったんじゃないかと思って外に飛び出たんですけど、誰かがいた気配があって、でもよく見えなくて。


 声も、私が近寄ったら急に消えてしまって……」


 市川が、ケープの中で肩を抱く。カタカタと身震いし始め、忍はハサミを遠ざけた。

 サロン内の温度が、急激に下がっていく。

 ドライフラワーたちまでもが、急に枯れ尾花になったように静まりかえる。

 誠人は、息苦しさに、肺が圧迫されるのを感じた。


「夫は寝ていてぜんぜん気づいてなくて。


 幻聴なのか、とも思ったんですけど。そんなふうに思う自分もイヤで。

 だって、幻聴なんて、いくら職場復帰したばかりだからって、そんなことでって呆れちゃうし、もっと頑張っているママさん、たくさんいるのに……」


 ああ。この人は、本当に芯の強い人なんだな。

 自分が追い詰められていることすら、受け入れられないほどに。

 そうやって思えば思うほど、人はどんどん底なし沼にハマって、抜けられなくなってしまうというのに……。


「――幻聴なんかじゃないと思いますよ」

ぽつりと零した誠人の声は、静寂に満ちた店内に、スッと一本の旋律を奏でた。


 鏡越しに、忍と市川の視線が誠に集まる。

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