第68話 死にたくない!
食料と水の尽きたザムザは、肉体が衰弱する中、祈るように宝箱を開け続ける――。
視界が悪い。靄がかかったようである。
それが、極度の空腹からくるものか、脱水状態からくるものか、ザムザにはわからなかった。
食料と水がなくなってから、二日が過ぎた。まだ二日とも言える。それでもザムザは衰弱を始めている。
「あと何日持つ?」
独り言ちる声が、かすれている。喉の奥に貼りつく感じがあった。
ザムザは時計を見た。午前九時。
前回、宝箱を開けたのは十二時間前である。ザムザの経験上、宝箱は消失してから、十二時間から二十四時間の間に復活する。
早く出てくれ! とザムザは、強く祈った。
この状況で、十二時間の幅は大きい。早く復活してくれれば、次の宝箱の出現時間も早まるのである。まさに命が懸かっている。
ザムザの祈りが通じたのか、宝箱はそれから一時間のうちに出現した。
ザムザは、這うように宝箱に近づく。
転移の罠であってくれ! と、また祈りながら、罠を鑑定した。
途端――。
絶望が、ザムザの心を支配する。
宝箱にかかっていた罠は、即死ガスであった。
一瞬、ザムザは迷う。しかし、決断はすぐに下される。
解除に失敗すれば死。しかし、宝箱を開けずとも、その先には死が待っている。
ザムザは解除する道を選んだ。
罠解除は、盗賊の基本技能のひとつである。ギルドでみっちりと教え込まれるし、実際に解除する機会も多いので、自然と磨かれていく。ザムザは三流と言えど、熟練の盗賊である。ほとんどの罠の解除は難しくない。
解除の難易度に、罠の種類は関係ない。罠の機構は概ね決まったものの組み合わせで、組み合わせ次第で難易度が決まる。この即死ガスも、危険度に反して解除は難しくないようだ。だが――。
指がふるえていた。それが恐怖によるものか、それとも極限に近づく肉体のせいであるものか、ザムザにはわからない。
たのむ。落ち着いてくれ……。
ザムザは、思うようにならない指先で、ひとつひとつ、解除のステップを踏んでいく。
幸いなことに、極限の状況で、むしろ集中力は高まっていた。
やがて、最後のひとつを解除する。
ザムザは深くため息をついてから、宝箱の蓋を開けた。それは、ひどく重かった。重くなったわけはない。ザムザが弱っているのである。
中は当然、聖女のメダルだろう。もうそれは、ザムザにとってどうでもよかった。しかし、それを取り出さなければ宝箱は消えてくれず、次の宝箱は出現しない。宝箱にかかった転移の罠だけが、唯一の希望なのである。
ザムザの思考は既に曇っていた。もはやこの状態で、他の場所に転移したとして、生き残ることはできないだろう。そういう当たり前のことにすら思いが及ばない。
ザムザは、腕だけを伸ばして、宝箱の中を探った。何の感触もなかった。底に指はついている。しかし、メダルの感触はない。
体を持ち上げて、宝箱の中を見た。
聖女のメダルは、なかった。
しかし、代わりに、一枚の紙きれが入っている。
いや、これは……呪符か?
ザムザはそれを取り出して、まじまじと見た。間違いない。呪符である。
それも――。
「帰還の呪符だ……」
ザムザは涙を流した。
ただ、さめざめと、泣いた。
「侵入者は無事、転移しました」
水谷の報告に、玲子は、ほっと胸をなでおろした。
「何日って言ってたっけ?」
「だいたい七日ですね。一週間です」
ザムザが、サンドボックスエリアに囚われていた期間である。
彼がサンドボックスエリアに侵入してしまった原因は、宝箱の転移の罠にあった。転移の罠の転移先は、全くのランダムだったのである。ダンジョン内のありとあらゆるエリアが対象になっていた。
ザムザの侵入が分かった時点で、それはすぐに修正された。現在は、サンドボックスエリアに加えて、蘇生用のセーフルームも転移先から除外してある。
「それにしても、よく生きていてくれたわね」
「餓死したら、どうなったんですかね?」
「回復の祭壇の力で、体の不調は治癒できる。空腹の状態で生き返るはずじゃ、ってフェリスは言ってたわ」
「じゃあ、助けなくてもなんとかなったかもしれないんですね」
「まあね。でも、本当に蘇生できるかわんないし、うっかり死んじゃったら困るでしょ。一応ね」
「ともかく、聖女のメダル以外も、宝箱にセットできることは確認できました」
水谷の言葉に玲子は頷いた。
「これからは、他のアイテムも入れるようにしましょう。それこそ、帰還の呪符とか、回復ポーションとか」
「当たりアイテムですね」
「折角だから、他にも当たりを増やしたいわ」
「課金アイテムを新規開発するんですか?」
いいえ、と玲子は首を振る。
「まずは、課金アイテムの改修をしたい」
「改修ですか?」
「そうよ」
玲子は、不敵な笑みを浮かべた。
「課金アイテムがもっと便利になる方法、思いついちゃった」
衰弱しきっていたザムザは、ダンジョンの地階に転移した段階で、気を失ったようである。
気が付けば、神殿の療養所のベッドで体を横たえていた。
聞けば、親切な冒険者がここまで運んできてくれたそうである。診療所でポーションを飲まされた後、丸一日眠り続けたらしい。
腹が減っているほかに、体に不調は感じなかった。とにかく腹が減っていた。
「なにか、食べるものを」
かすれた声で、そう僧侶に訴えると、彼は言った。
「飢餓状態の体に、急に肉などを食べるとよくありません。重湯を用意しましょう」
重湯というのは、小麦粉を茹でて糊状にしたものである。重い病気のときなどに食される。
それほどの状態なのか、とザムザは慄いた。
ややあって、僧侶が戻ってくる。その手には、湯気の立つ碗があった。
「どうぞ」
差し出された碗を、そっと受け取る。木製の碗越しに熱を感じた。
口元に近づけると、うっすらと小麦が香った。色味は、ほぼ透明ながら黄みがかった白色で、決してうまそうではない。
ゆっくりとすすると、軽い塩味がついていた。
じんわりと体にしみこんでいく感じがする。
――うまい。
いや、特にうまいものではない。ないのだが、何故だかうまい。
知らないうちに、ザムザはまた涙を流していた。
その涙は、生き延びたことを神に感謝する涙であった。
次回更新は6/25です。




