彼女と川べりで
家から少し行くと川がある。
「頭痛ぁ……」
翌朝、僕は二日酔いの頭を覚ますべく、堤防へと辿り着いた。
川辺へ下りる階段に腰かける。石の感触が冷たい。
遠くの山には霧がかかっている。これも懐かしい景色だった。
昨夜は皆で高額商品を見破る番組を見て盛り上がり、流れで刑事ドラマのスペシャルを見た。結局弟たちは泊まった。
両親は昔より寝るのが早くなった。
「健一、洗い物頼むわ」と頼まれた僕はやけになって深酒して……コタツで寝ていたらしい。おまけにスマホは充電しないままだった。
「っくし!」
くしゃみが出る。風邪を引いていないといいが……。
「川の流れだけは変わらないな……」
そうつぶやいてみたが、途端に「ゆく川の流れは絶えずして」で始まる古文を思い出した。あれは川は同じように見えて流れる水は元の水じゃないとか言っていたか。
「しかももとの水にあらず、だったっけ。誰の言葉だったか……」
独り言をつぶやいたつもり、だった。
「鴨長明の『方丈記』ね」
「っうわぁ! びっくりした!!」
後ろを向くと、堤防の上に彩がいた。
「おはよ」
「お、おはよう」
彼女は階段を下りてきて、僕の隣に腰かける。
「健一君……あっ、健君と紛らわしいから健一君、いや、健一さんって呼ぶね」
いきなり二段階くらい呼び方のランクが下がった。
「昨日は私のこと黙っておいてくれてありがとう」
「ん……」
「『黙っておいてね』、ってアイコンタクトが通じたのね」
「ん? んん……」
確かに昨日はしばしば彩と目が合った。その度に「しゃべったら殺す」ぐらいの視線の圧を感じた気がするが、どうやら認識が違ったらしい。
でもここで会えてよかった。聞きたいことがあったのだ。
「……あのさ、健二と付き合いだしたのって」
「あ、大丈夫!」
彼女は顔の前で手をぶんぶんと振る。
「健一さんとは時期かぶってないからね。そっちつながりで付き合ったわけじゃないから。本当に偶然なのよ」
いわく、俺と別れた彼女は、転職で地元――健二の勤め先がある隣の市に戻ってきたのだという。
仕事で知り合い、名前を聞いて仰天したとか。
「その時は健二さんと結婚まですると思ってなかったし、言わずにずるずるきちゃった」
「うん、まあ、そういうことならこれからも黙っておくよ」
心底安心した。
「ありがと。
……ねえ、それとは別に、なにかあった?
元気ないよね?」
そうだった、と思い出す。彼女は自分のことは後回しで、周りをよく気にかける人だった。
僕は帰省してから実家の変化に戸惑っていることを洗いざらい話した。
「……皆変わっていって、寂しいっていうか、俺だけ置いてけぼりみたいで。
君に振られてから彼女もいないし。健二はすごいよな、前の奥さんのことも乗り越えて実香ちゃん育てて、近くに住んで親孝行して……」
それに君とのことも、とはなぜだか言いづらかった。
バシッ!
「うっ」
背中を叩かれた。なんかこの展開前もあったような。
「なに自分が悲劇の主人公みたいな言い方してんのよ」
「うう……すみません」
背中をさすり、川の流れを眺める。朝日が徐々に登り、川面がキラキラと光る。
僕の胸の内と違って、シンプルに美しい光景だった。
「置いてけぼりだって思ってたのよ。
あなたと別れた頃の私も」
「え?」
隣を見るが、彼女の横顔は川を見たままだ。
「今思えばホームシックだったんでしょうね。精神的に疲れてて、それでもあなたは研究を黙々と続けてるし、勝手に取り残された劣等感を感じて……だから別れたの。気を使わせて、あなたの負担になりたくなかった」
瞬間、よりを戻したい衝動に駆られたが、可能性は微塵もなかった。
「……そうか。今はどう?」
「平気。たぶん都会が合わなかったのね、私」
「幸せそうで、よかった」
「健一さんは今、恋人はいるの?」
「……」
見得をはって嘘をつこうかと思ったが、田舎の朝の空気は冷たく澄んで、自分を脚色するのがはばかられた。白い息まじりに本音を吐き出す。
「いないよ。仕事と結婚してるようなもんでさ」
「きっといい人見つかるよ」という返しを予測した。何百回と言われた言葉だ。慣れても心には微細な傷がつく。その覚悟をした。
「ずっと同じ仕事に打ち込むなんて、すごいね」
僕は目をぱちくりさせた。
「そうかな」
「そうよ。
『仕事と結婚した』って言うと、結婚できないネガティブな言い訳みたいだけど、あなたはずっと研究を続けて、仕事にして、一本の筋を通している。
素晴らしいことだよ。
変わるのも素敵だけど、変わらないひたむきさとか情熱とか、それも素敵だと私は思う。
昔のことも、気にしないでね。
私とあなたは合わなかった、それだけのことだよ」
僕は圧倒されていた。
久しぶりに人の言葉をまともに聞いた気がした。仕事とか関係なく、素の人間の言葉を。
1人で生きてきた気になってたけど、うらやましがったり、その逆もあったり、恋をしたりすれ違ったり、そんなふうに周りと影響し合って生きてきて、これからもそうだと、目からウロコが落ちた気になった。
「ありがとう。気持ちが楽になった。
彩……さんは先生みたいだな」
彩さんは微笑んだ。相変わらず、人の良さが内面からにじみ出てくるような笑顔だった。
「なんて、私も落ち込んだときに周りに声かけてもらってね、その受け売り。
あなたに渡せてよかった」
「うん」
そろそろ朝ごはんの支度を手伝わなきゃ、と彩さんは立ち上げる。一緒に帰るのもなんだから、僕は時間を置いて戻ることになった。
「ちなみに、私が言うことでもないけどね……お正月、親戚の子とくれば、やることがあるんじゃないの?
実香ちゃん、期待してるみたいよ」
そう言って、また彼女は笑った。