カジュマルの樹の下で
汗と雨と泥で衣服は身体に張り付くようにベトベトになっていた。視界も悪く、闇夜の中で1人震えている。腐った樹と土の臭いが鼻腔に付いた。噎せ返るような圧迫感に脈が上がる。
混乱と不快感の狭間で幼いサシャ・バトスは泣きじゃくっていた。
きっと大人達が助けに来てくれるに違いない。この願望は確信とは程遠かったが、気休めにはなった。もし、骨になるまでこの落とし穴から出られなかったら、無念過ぎて死んでも死に切れないだろう。
事の発端は単純だった。従兄弟のラウド・バトスと隠れ鬼をしようとサシャは言ったのだ。ジャンケンで負けたラウドは鬼として、サシャを探すはずだった。しかし、突如現れた暗雲によって台風級の大雨に見舞われ、ラウドはおそらく鬼の役を放棄したに違いない。
大人達にラウドはサシャの不在を訴えるだろうか。いや、ラウドはきっとサシャもこの大雨の中、隠れ鬼の中止を暗黙の了解と捉えると考えるだろう。
タチの悪いことにサシャは意気揚々と禁断の森の中で隠れていた。叩き付けるような大雨に見舞われてから、走って森から脱出しようとした際、誰かが作ったようにしか見えない落とし穴にハマったのである。
バカなことをした。
幼心からも状況を理解できた。サシャの父は戦死し、サシャの母は心を病んでいる。そして、ラウドは楽天家だ。
真夏なのに寒気がする。ミミズが近付いて来て、触れずにいると落とし穴の隅の方に押しやられた。
自力で落とし穴を脱出しなくては。
急角度の滑り台のように上がってはずり落ちてを繰り返す。先月買ったばかりの白いワンピースが汚れ切っていたが、優先順位的に背に腹はかえられぬである。
泥の斜面は必死なサシャをせせら笑うように毅然と佇む。何度も繰り返す行為は男女間で成される行為に似ていた。
サシャはジワジワと生と死を実感し、涙声が漏れていた。
「助けて…」
最初は呻くような声だった。だが、段々と明白に発音されていく。
「誰か助けて!!!」
明確な悲鳴として、森の中の鳥を驚かせた。しかし、その声は肝心な人の耳に入ることはなかった。
どれだけの時間を意地悪な泥の傾斜の元で過ごしただろう。少なくとも5時間以上経過しているようにサシャには感じられた。
ふと、背後から「大丈夫か」という人の声がし、幼いサシャはギョッとして、自分の無力さを呪った。
暗闇の中の亡霊のように、小柄で姑息そうな眼をした端正な顔立ちの男が、優しさとは無縁の声で「変な物を引っ掛けたか」と呟いている。
「小娘、僕がここで密猟していることを口外しないなら助けてやる」
サシャは何も言わず、首を縦に振った。できるだけ相手を刺激するべきではないと分かっていた。
「小娘、名前は」
男の狡猾な目付きが気になるが、藁をも掴む想いで正直に名乗ることにする。
「ボクはサシャ・バトス。お兄さんは」
「僕はオートブレイカー。あの名家のバトスか。参ったな。とんだババを引いちまったぜ」
「手を出せ」とオートブレイカーは言った。
「早くしろ。この現場を誰かに見られたら、僕の出世は絶望的だ」
男の割りにヒョロヒョロの腕に違和感を覚え、躊躇っていると、ラウドの父のクレイ・バトスの野太い声がした。
「おーい!!サシャ、生きてんのか」
オートブレイカーの手を掴んで、大雨の中、ヌメヌメ滑りながらも意地悪な傾斜を一気に登る。呆気なさに愕然とした。
背後にある落とし穴を四つん這いで見る。大人なら自力で這い上がれそうだ。悪意のある代物ではないことが分かった。
「走るぞ」
オートブレイカーが、サシャの手を痛い程強く引いて、その場から逃れようとしている瞬間だった。
「てめぇ、待てコラ」
前方からクレイが光魔法で辺りを照らしながら、オートブレイカーに批判の視線を向けていた。
「バトス家を敵に回すと痛い目に逢うぞ、兄ちゃん」
オートブレイカーはキッと一瞥すると、降参のポーズを取った。
「僕は小娘を助けたんだ。密猟してたことは認めるがな」
クレイは鼻先でせせら笑った。
「サシャも勇者候補だ。勇者を殺そうとしたという事実がどれだけ重いかゆっくり知るがいい」
クレイとオートブレイカーの間で一色触発状態が続いた。
サシャは咄嗟にオートブレイカーを守るよう間に割って入った。
「お兄さんはボクを殺そうとしてないよ」
雨が小降りになっていく。虹が掛かり雨雲がのんびり動き出した。
クレイが愉しそうに笑った。
「子供に護られてさぞ気分いいだろうな。さっさと失せろ。ゲス野郎」
オートブレイカーの憎悪の炎に炊かれた目にサシャとクレイが映る。
「バトス家を滅ぼしてやる。この僕が。必ずな」
オートブレイカーは身を翻し、禁断の森の住処に帰って行った。
サシャが何を言っても、クレイの誤解を解くことはできなかった。それどころか、ラウドやサシャの一族皆してオートブレイカーを嘲笑した。
13歳を迎えたサシャはバトス家に必要のない炎魔法に長けていた。特にブラッド・フレイムという自分の血を炎に変える魔法が得意だった。欠点としては、多用すると貧血気味になることである。魔力量も中途半端だったため、勇者より国王の妾になるのが相応しいとまことしなやかに囁かれていた。
一方、ラウドは勇者に必要な要素は全て備えていると評価されていた。勇猛果敢で光魔法使いであり、筋力も申し分ない。聖剣を抜けるのは彼以外に何者もいないと思われていた。
サシャは赤みがかった甘栗色の天然パーマの少女で、ラウドは黒髪を短く束ねた青年だった。
2人共、憎まれ口を叩き合うものの、本気で相手を憎むことはなかった。お互い認め合い、従兄弟というより本当の兄弟のように接していた。