四章 スイート・ビター・チョコレート(2)
「あの」
おずおずと佳代さんが手を上げる。
「何ですか}
不貞腐れた投げやりな口調で狗狼が尋ねた。もうどうとでもなれとでも言うかのようだ。
「あの、私の車のナビ、買い換えたばかりで、ひょっとしたら映像を見れるのかも」
数分後、私達は佳代さんの愛車であるダイハツ・エッセにみっちりと体を寄せ合って乗り込んでいた。運転席に佳代さん、助手席に工藤さん。そして後部座席には私を挿み込む様にして狗狼と奥田さんが腰掛けている。非常にきつい。
本来、ダイハツ・エッセは軽乗用車で4人乗り、車載可能重量二百キログラム迄で誰かは乗れないはずだけど、その誰かは「此処まで来て僕だけ仲間外れで映像を見れないのは勘弁して欲しい」といったので、道路を走らなければいいだろうという事で彼も車内に乗り込んで来たのだった。
「狗狼、プジョーのナビに再生機能は無いの?」
狗狼の胸に頭を預けるような姿勢になったので少々恥ずかしさを覚えながら、それを振り払う様に彼に尋ねると、「メモリーカードなんだよな」と返事が返って来た。
前座席では佳代さんが白茶けた顔色で眼鏡の奥の目を丸くしながら、先日買って取り付けて貰ったばかりだというナビゲーションシステムの取扱説明書を読んでいる。
時折、彼女の白い指先が何度か画面をつついているけど、必要な機能が表示されないらしい。
【自宅の設定を消去しますか】
「……」
今、佳代さんの顔を正視出来ません。
狗狼が「取説を寄こせ」とでも言いたそうに口をわずかに動かしているけど、当の佳代さんは、それに気付いた風も無く画面とにらめっこしている。
「佳代、これだよ」
横から工藤さんの指が動き、画面をタッチするとTVが見れるようになった。ニュースキャスターの原稿を読み上げる声が車内に空しく響き渡る。
「TVが見たかったの?」
佳代さんの声が何処か怖い。
「いや、TV画面を弄ったら、メモリの映像が、見れるんじゃないかな」
「それより、何処に差し込むかが重要じゃないでしょうか」
冷や汗をかきながら答える工藤さんに奥田さんがもっともな事を指摘する。彼は早く映像を見て車内から出たいみたい。
「パネルがスライドするのよ。画面を押したら」
「そうですか」
佳代さんの答えに奥田さんも力無く相槌を打つしかなかったようだ。
「あ、あの、私が取説を読みましょうか」
「え、ああ、悪いわね、お願い出来ます」
意外と分厚い取扱説明書を受け取りページをめくる。
目次からナビシステムの構造を探し出し、そのページを開ける。
「ええと、画面の右端のDVD/CDの所を押すとパネルがスライドします」
「これ?」
ディスプレイが上にスライドしてDVDとCDの挿入口とUSB端子が現われる。
「凄い。よく解ったわね」
「え、その」
読めば解りますって。
あ、そういえばママも家庭電気用品が苦手だった。買ったばかりの電子レンジの使い方が解らないと、私に操作を押し付けていたし。
「じゃ、これを差し込んで」
「は、はい」
佳代さんが狗狼からUSBメモリを受け取ってUSB端子に差し込むと、自動的に再生されるのか、画面から地図が消えて青い空と白い大地、ビニールハウスとその中で茂った木々の映像が映し出される。
「始まった」
狗狼が身を乗り出し、私の視界の半分が狗狼の後頭部で占められる。
「ん、全然見えないぞ。画面が小さいんだよ」
「え、私も、見えない」
残る半分も奥田さんの薄い色素の髪が占領して、私は二人の顎先の空間から辛うじて画面を視認した。
「御免なさい、後ろ静かにして下さい」
「「「はい」」」
画面を見つめたまま佳代さんが背後の喧騒を制する。
映像はビデオカメラで撮影されているのか、その生い茂った木々にカメラが近づいて拡大されると、その木に赤く細長い楕円形の実が生っている事が見てとれた。
再びカメラが遠のくとその木々の前にぞろぞろと人が集まって来た。褐色の肌色をした人々が最も多く、縮れた髪質をしている事からアフリカの人達ではないだろうか。
後の人達はアジア系が多く、肌の色の白い人は二人しかいなかった。
集まった人たちの年齢は様々だけど、アフリカ系の人は比較的若く一番手前では七歳位の女の子がはにかんだ笑みを見せて恥ずかしそうに身体を燻らせている。
「ヨウコサンノ、オトウサン、オカアサン、オゲンキデスカ。ワタシノナマエハ、アバイ・ベルハヌ、デス」
背の高い褐色の肌をした青年達の中で、一際背の高い身長百九十センチは超えていそうなひょろりとした体形の青年が区切ったたどたどしい日本語で画面に語りかける。年齢は二十歳ぐらいだろうか。
彼の足下には褐色の肌をした子供達が地面に座り込んで地面に棒で落書きをしていたり、長い彼の足にしがみ付いて引っ張ったりと自由に過ごしている。
彼はそんな子供達へ、視線を向けてしょうがないなあとでも言う様な温かい苦笑を浮かべてから、再び画面に向けて語り掛けた。
「ワタシハ、ゴネンマエ、ブキヲステテ、スピーシズ・オブ・ホープニ、ホゴサレマシタ。ヨウコサンハ、ワタシニ、ブキヲツカワナイデイキルホウホウト、ベンキョウヲオシエテクレマシタ。ニホンゴモ、ヨウコサンカラナライマシタ」
アバイさんの両掌は何かを包んでいるのか、重ねあわされた両掌がラグビーボールのような形に膨れていた。
「ワタシタチノ、クニハ、コーヒーマメノシュウカクデ、セイカツシテイルヒトガオオイデス。デモ、コーヒーノキハセンサイデ、チキュウオンダンカノエイキョウデ、ジュウスウネンゴニハ、シュウカクリョウガゲキゲンスルカモシレマセン」
それは私も世界地理の授業で聞いた事がある。コーヒー豆の2050年問題と呼ばれているものだ。
コーヒー豆の栽培は北緯二十五度、南緯二十五度の限られた地域に限られており、その地域に属する国々では、コーヒー豆の輸出を外貨獲得の手段のひとつとしている国々も多い。
しかし地球温暖化が進むと、温度や湿度の変化により【さび病】と呼ばれるコーヒーの木にとって病気の蔓延や降雨量の減少が起こり、2050年にはアラビカ種と呼ばれる珈琲豆の栽培に適した土地が現在の五十パーセントまで減少する可能性が高い。
「ソウナレバ、ノウジョウでハタライテイタヒトタチノ、シュウニュウガヘッタリ、ショクヲウシナッタリシマス。ソンナヒトタチノフマンガツノレバ、ボウドウヤ、ナイランヲヒキオコシ、マタ、ワタシノヨウナコドモタチガフエテシマイマス」
アバイさんの眼が悲しげに伏せられた。彼が武器を持っていた頃を思い出したのかもしれない。
「ヨウコサンハ、コーヒーマメノ、サイバイノウカヤ、アメリカノダイガクノヒトトキョウリョクシテ、コーヒーマメノカワリニ、オンダンカガススンデモタエラレル、カカオノキヲツクッテ、ソダテテイマシタ。ワタシモ、ココニキテ、ヨウコサンノテツダイヲシテイマシタ」
アバイと名乗った青年が両手を開くと、その中に長さ二十センチほどの赤い木の実の様な物が握られていた。
「ナエカラ、ソダテテ、5ネンメ。ヨウコサント、イッショニソダテタ、カカオノキニ、ミガナッタノデ、オシラセシ、マス」
白衣を着た白人男性が拍手をすると、周りの人たちも同じように手を叩きだした。皆の顔に笑顔が浮かぶ。
「コレガ、カカオノ、ミ、デス。コレト、ウシロノ二ホン、ダケ、ミガナリマシタ」
ビニールハウスの大きさからすると微々たる量だと思う。それにもかかわらずアバイさんと、その周囲を囲む人達の表情は明るかった。
「コノミガナッタノハ、ヨウコサンガ、ヒルモヨルモ、タイセツノソダテテキタオカゲデス。アリガトウゴザイマス」
工藤さんの閉じられた口から声が漏れる。両膝を掴む一〇本の指が小刻みに震える。
「カカオノマメガ、オオクナルノハ、ジュウカラ、ジュウニメンメデス。ワタシハ、ソレマデニ、コノミヲフヤシテ、コノキヲヒロゲテイキマス」
とても先は長く、並大抵の努力では達成出来ないであろう事を、このアフリカの青年はたどたどしい日本語だけど、自信に満ちた声で言った。
「イツカキット、ワタシガヨウコサンニ、シゴトヲナライナガラキイタ、コノマメデチョコレートケーキヲミナデタベタイ。ソノネガイヲ、ミンナデカナエヨウトガンバリマス。ソシテ、ワタシモ、ヨウコサンノ、ノコシテクレタ、コノキボウノタネヲ、コドモタチニツナイデイキマス」
アバイさんは自信に満ちた眼差しを画面の向こうに居る私達に向けて微笑んだ。
私には彼の微笑みは、画面に向こう側に居る工藤さんや佳代さんだけでなく、もういなくなってしまった陽子さんに向けられている様に感じられた。
ほら見てよ、ヨウコサンの残してくれた木に実が付いたよ。彼は彼女にそう言いたかったに違いない。
彼女の喜んだ顔が見たかったに違いない。
でも彼女はもうこの世界にはいない。
彼も、彼女の両親と同じく、その現実に打ちひしがれて膝を屈したのだろうか。
母を亡くした時の私の様に、この世の全てに絶望し、厭世的になったのだろうか。
画面の向こうに居る彼は、その喪失感をおくびにも出さず力強く生きている。
去ってしまった彼女の背中を笑顔で見送ろうと努力している。そう思えた。
「ヨウコサンノ、オトウサン、オカアサン。ワタシタチハヨウコサンヲワスレマセン。コノカカオノミトトモニ、ヨウコサンノオシエテクレタコトヲ、ワタシノクニノヒトタチニツタエツヅケテイキマス」
その言葉の終わりと主に画面が暗転した。どうやら映像が終わったらしい。




