二章 眼鏡ともふもふと慟哭と(7)
眼の前で震える男の人は再び両眼から涙を流し、後悔に苛まれていた。
彼の苦渋に満ちた言葉はまだ続く。
「娘は施設からの帰り道で何者かに襲われて命を落とした。施設から出て直ぐ襲われたらしく、その次の日の朝に出勤した職員が見つけて通報してくれた。死因は大きな刃物で背中を割られた出血性のショック死だった」
隣で狗狼が「マチェットかな?」と呟いた。男の人と私が狗狼を見たので狗狼は「簡単に説明すれば刃の長いナタの様なものだ」と説明してくれた。
「大使館の人も大きな刃物で切り付けられたと言っていた。僕は大使館の職員に犯人は誰だと詰め寄ったよ。じゃあ、なんだ、答えは最悪だった。犯人は娘の務めていた施設で訓練を受けていた少年だった」
「そん、な」
「そいつは何時も娘が大事そうに身に付けているポシェットがあって、中身を聞いても大事なものと答えていたから値打ちのあるモノだろうと思ったそうだ。だから襲って奪ったそうだ。そいつは、その鬼畜は、ポシェットの中身は写真しかなかったから何処かに捨てたと」
「……酷いですね」
そうとしか言えなかった。この目の前で涙を流してやり場のない悲しみと憤りを抱える男の人と、その早逝した御嬢さんの運命に。
「妻は、あの子を外国に、その仕事に就くことに反対だった。危険の伴う仕事だから別の仕事にしてほしいと、保育園の仕事を継続して欲しいと娘に懇願していた。僕にも連絡を取り娘を説得して欲しいと頼んで来たんだ。でも、僕は娘の願いを優先して彼女を送り出した。だから妻は僕を恨んでいる」
「……」
どうしようもないのかもしれない。
狗狼は男の人の話す内容を予想していたわけではないけど、話を聞く前の彼の忠告が身に染みる。
既に起こってしまった事件で、それを覆すことは誰にも出来ないと思う。
でも、今、生きている人に何か出来ないのか、救いは無いのかを考えるのは間違いじゃないと思う。
狗狼からすれば、それは私達の問題でなくわざわざ顔を突っ込む必要は無いのだろうけど、聞いた後にただ背中を向けて去ることは私に出来そうも無かった。
「その、奥さんに、お嬢さんの埋葬、眠っている墓地をもう一度、聞くことは出来ないのでしょうか」
男の人は静かに首を振った。
「それは無理なんです。妻は僕に会いたくないんだ。教えてくれるはずもないさ」
多分、この男の人の別れた奥さんは、自分が育てた娘を失った憤りをこの人にぶつけているのだと思う。
この人が悪くない事を彼女は解っているのだけど、その起こってしまった悲劇に対する怒りをどうするべきか分からずにこの人にぶつけているのだ。
私もママを亡くして只一人となり、辛くて寂しくてもういない人のことだけを考えて、他の事などどうでもよいと思っていた。その悲しみに浸かったまま人形のように生きて、狗狼に助けられなければ死を選んでいた。
この男の人や元奥さんも同じかもしれない。
大事なものを失って、お互いを見ることが出来なくなっている。お互い亡くしたものは同じなのに支えあうことを諦めている。
それは駄目だと思う。
でも私がこの男の人に奥さんと会うべきだと言っても、彼にとっては私は部外者で、余計なお世話としか受け取られるんじゃないか。
仮に二人が顔を合わせても余計に傷つくだけじゃないのか。そんな恐れを抱いてしまう。
私はどうすればいい。答えが解らなかった。
「……腹が減ったな」
狗狼が何の前触れも無く空腹を訴えた。私は今更、そういえばこの喫茶店に入店してから注文をしていない事に気がつく。
「あんた、此処までどうやって来たんだ?」
「え、バ、バスですが」
狗狼の質問に男の人は戸惑いながら答えた。
「で、元奥さんは何処にいる?」
「小浜です。娘の務めていた児童施設も同じ市内にあって、児童施設傍に海産物の直売所があって、そこから妻と二人で娘の仕事ぶりを見ていたことがあります」
「よし、途中の南条SAでボルガライスを食べた後、元奥さんに会って申し開きをしよう」
狗狼の提案に男の人は慌てたように両手を突き出した。
「ちょっと待って下さい。妻は私を憎んでいるのにわざわざ顔を出しに行けなんて、何を考えているのですか?」
「こんな場所でうじうじ考えるよりも、いっその事、当たって挫けるんだな」
挫けてどうするんですか。
でも狗狼の言う事にも一理ある。
「あ、あの、本当は、貴方の奥さんも、子供を失った原因は、貴方のせいじゃないと解っていると思うんです」
私が詰まりながらも、何とか自分の考えを口にすると、男の人は目を伏せて拒否するように静かに首を振った。
「妻に会うのは、辛いです」
「なら、これからあんたはずっと、娘さんの墓参りにも行けず、奥さんの心の傷を癒す事もしないまま、己の不幸に酔いしれて、ただ思い出の場所で涙ぐんでいるんだな。お幸せに」
「狗狼!」
私は言い過ぎではないかと狗狼を制止しようとしたが、彼はそれを意に介さず席を立った。
「湖乃波君、生ける死体にこれ以上関わって貴重な夏休みを無駄遣いする必要は無い。とっととボルガライスを食べに行こう」
私は喫茶店の出口に向かう狗狼を追う。
「狗狼、待って」
私が狗狼に追い付いたのは喫茶店の外に出てからだ。
「狗狼、あのままあの人を放っておくの?」
狗狼は無言で207SWの運転席に身を滑らせる。私も急いで助手席に座ってからシートベルトを締めた。
「狗狼!」
「これ以上、関わる必要性は無いな。本人が望んでいない」
「……そんな」
狗狼はそれきり口を閉じて207SWのアクセルを踏み込んだ。
あの男の人に話を聞いたけど私は何も出来ず、男の人もそれを望んでいない。余計なお世話という事だろう。
でも私の眼には、あの男の人は娘を失って悲しんでいるし、傷ついていた。
このまま誰も救われないというのは、私には間違っているとしか思えないのだ。




