二章 危険な受取人(1)
二章 危険な受取人
1
結局、一睡もせずに俺は朝を迎えた。
少女は夜中に何度か目を覚ましたようだが、今は寝息を立てて横になっている。
結局、彼女の叔父は帰って来ず、俺の昨晩から此処までのドライブはただ働きであることが確定したようだ。
目的地まで行けば彼らが待っているかもしれないが、俺はそんな不確定な希望に縋るほど余裕のある人間ではない。とっとと神戸に戻って堅気の仕事を見つけるべきだ。
現在、六時三十分、紀ノ川SAでは朝四時頃からベーカリーコーナーの職員達がパン捏ねて焼く調理工程を駐車場から見学出来るのだが、そろそろ見飽きてきたので少女を起こすこととしよう。
とりあえず鼻でも摘まむか、と俺は少女の形のいい鼻を人差し指と親指で摘まんだ。
流石に人差し指と中指で少女の鼻の穴を塞ぐのは極悪なのでやめておく。
鼻を摘ままれた少女は眠っていても苦しいのか、首を左右に軽く振った。もうそろそろ起きそうなので、ついでに唇も摘まむ。
じたばたじたばた。
じたばたじたばたじたばた。
じたばたじたばたじたばたじたばた、ばんばんばんばん!
最後の「ばんばんばんばん」は足裏で床を叩く音だ。全く底がへっこんだらどうするのだ。
多少、溜飲が下がったので少女の鼻と唇を解放する。
「わあっ」
少女は短く叫んで勢いよく上体を起こした。ポニーテールの先が文字通り馬の尻尾の様に波打つ。そのまま振り返った少女は、うっすらと目に涙を溜めている。叔父が居なくなって寂しかったに違いない。
「何するんですか」
「おはよう」
少女は「えっ」と短く呟いて俺を見返した。ふむ、寝起きで頭の中がハッキリしていないのだな。
「朝の挨拶だ、おはよう」
「………」
「その齢で朝の挨拶も出来ないとは、何とも嘆かわしい。おはよう」
「………お、は、よ、う、ご、ざ、い、ま、す」
少女にしては優雅さの無い、一言一言区切るような低い声の挨拶だ。
「朝だ。ご飯にしようか」
俺は先程から失礼にも人を睨み付けている少女へ朝食に行くよう促した。
当然ながら俺が奢るしかない。朝早くに食堂で食べれるが、手っ取り早くSA内の売店でミックスサンドとコーヒーを買った。
207SWに戻り、二人で黙々とサンドイッチを食べる。これからどうするか、そろそろ少女に告げなければならない。
「駅まで送る。君はそのまま家に帰れ」
サンドイッチをコーヒーで流し込んで一息ついた後、俺は後部座席でサンドイッチを啄ばむ少女の顔を見ないようにして静かに告げる。
「悪いが肝心の依頼人兼荷物が居なくなったんだ、このままただ働きする気は無いんでね。帰らせてもらうよ」
バックミラーに映った彼女はサンドイッチを食べるのを止めたまま、じっと俺の言葉を聞いている様だ。うつむき加減でどんな表情を浮かべているかは解らない。
「家にでも帰って、二人の帰りでも待ってるがいい。もし明日の朝になっても戻らなければ、警察に失踪人の捜索届を出すべきだな。出来れば俺の事は警察には黙ってて貰いたい」
少女の薄紅色の唇が微かに動いたが、俺はその言葉を聞き逃した。
「何か言ったか」
「無いです」
「何が? 何も言ってないのか?」
少女は振り返った俺を見返した。何か怒りを堪えている。ただ、俺にぶつけるべきものでは無いことを、少女は弁えているのだろう。
「帰るべき、家なんかありません」
ぽつぽつと少女が答えた。淡々とし過ぎて逆に何か怖い。
「叔父が、もう、部屋は引き払ったって。家具や荷物も、お金に変えたって」
なるほど、夜逃げか。となると、少女を置いて行ったのは厄介払いかもしれない。
「ママの残して、くれた、お金も、学費も叔父が全部持ってて。授業料も払ってないから、三年生になってから学校にも、行けなくて」
くそ親爺! なんてもんを置いて行くんだ。どうしろってんだい。といっても何も出来ないが。
紀ノ川SAを出て和歌山インターチェンジを目指す。そこから一般道へ降りて和歌山駅で少女を下ろすことにしよう。後は少女が何処に行こうと俺の知ったことではない。SAで放り出さずに駅まで送った時点で、大人の義務は果たせると思うのだ。
其れきり俺も彼女も口を開かず、207SWは阪和自動車道を下り、和歌山インターチェンジから145号線へ向かう。時間があれば和歌山城でも見物して帰りたいが、少女を和歌山駅に置いた後、そんな悠長な気分になれないであろう。
今日はさっさと帰って、布団を被って寝て今日のことは忘れてしまおう。俺の心配しなければならない事は、少女の身の心配ではなく、いかにして明日から生活して行くか、だ。
和歌山駅正面のけやき通りは、何時もなら非常に混んで車の流れが悪いのだが、今日は土曜日でまだ朝の七時半ということもあり、スムーズに道路脇へ207SWを停めることが出来た。
俺は車を降り左側の後部座席のドアを開ける。
「降りろ。ここでお別れだ」
少女は暫く俺の顔を見返した後、車を降り周囲を見回した。
彼女にとって全然知らない土地だろう。内心不安であろうことは予想されるが、彼女の整った表情には陰りは見えなかった。
「見てわかるだろうが、あの駅が和歌山線の和歌山駅だ。あれで和歌山市駅まで行けば大阪へ帰る南海本線へ乗り換えられる。下れば紀伊半島をぐるりと回れる。好きにすればいい」
俺は愛用の小銭入れから折り畳んだ五千円札を取り出した。
「少ないが選別だ。少しは移動の足しになるだろう」
少女は五千円札と俺の顔に順に見た後、「ん」と言って俺に掌を向けて左右に振った。
「………いらないのか?」
こくんと頷く。
「手持ちのお金は有るのか」
左右に首を振る。おいおいおい、どうするんだ君は、と言おうと思った俺に、彼女は意外な一言を言った。
「貰う、理由が、無いから」
「………」
この子はどんな教育を受けてきたのだろうか。俺なら同情をさそって倍額貰おうとするぞ。
「お世話に、なりました」
少女は深々と頭を下げてから駅を振り返って、そのまますたすたすたと歩み去って行く。
振り返りもしなかった。意地になっているのか、それとも本気でどうにかしようと思っているのか、俺には判断付かなかった。
暫く遠くなる少女の背中を見送っていたが、俺の後ろに止められたクラウンアスリートから下りた男四人組がこちらを伺っているのに気付き男達を見返した。
彼等は覗き見ていたことがばつが悪いと思ったのか二人は駅へ足早に向かい、二人はクラウンへ乗り込んですぐに発進した。
俺は彼等には先程の光景がどう見えたのか気になったが、もう終わったことだと首を振って馬鹿げた考えを振り払った。
まあ、娘を旅行に送り出す父親に見えたのなら問題は無いだろう。




