二章 眼鏡ともふもふと慟哭と(3)
私の保護者は気にした風もなく私とのっぽと小太りの青年達の前に来ると、青年達の姿を眺めて唇の端を僅かに吊り上げる。
「麒麟と穴熊までもがスマートフォンを持ってるのか。確かに獣には礼儀は理解出来んな」
青年達は狗狼の行動に気圧されたのか、皮肉めいた物言いに反論する事も無く身を強張らせた。
黒スーツ、サングラス、黒ネクタイと見るからに怪しい人が、怪しい行動をしたんだもの、そんな人に相対したら普通の人はどうしようか戸惑うに決まっている。
狗狼の両手が霞み、動きを止めた時にはそれぞれに手にスマートフォンが握られていた。
二人の青年は驚いたように視線をスマートフォンを握っていたはずの己の右手と、現在、それを手にしている狗狼の両手の間を往復する。
「さて、此奴をどうしようか、なあ」
意地の悪い笑みを浮かべて二人を見返していた狗狼は、琵琶湖の方向へ向き直ってから右手を後方へ引いた。
「人の写真を撮るときは、あらかじめ承諾を取ってから撮影しよう。それが出来ない礼儀知らずの悪い子は、こうだ」
狗狼の右手が前方へ投げ出され、スマートフォンの一個が琵琶湖の方向へ高々と宙に舞った。
「ほーら、取って来ーい」
当然、琵琶湖まで届くわけはないがスマートフォンは放物線を描いてサービスエリアから麓の滋賀短期大学付属高校に向かって落ちていく。
「んでもって、もう一丁」
もう一個も同様の軌跡を描いて放り投げられた。
声を上げて柵に駆け寄りスマートフォンの行方を目で追う青年達を尻目に、狗狼は私の手を取ると「さて、逃げるか」と207SWに向かって駆け出した。
何なの、この人は。
素早く207SWに飛び乗り、私がシートベルトを締めるのを待たずに本線に向かって走り出す。
「……恥ずかしかった」
「仕方がないな。彼等に写真のデーターを削除してくれるよう頼んだところで彼等が大人しく従ってくれる確証も無かったし、そこで押し問答する時間の無駄を省いただけだが」
私が顔を伏せて言った一言に、狗狼は表情一つ変えることなく反論した。
「それでも、あそこで人の名前を、大声で呼ぶのは、良くないよ」
「それは悪かった。お詫びに次に来た時は、二人で並んでお子様座りで琵琶湖を堪能しよう」
「絶対、嫌」
「それは残念、って」
207SWがゆっくりとスピードを落として、はるか前方まで続く車列の最後尾へ車体を付ける。
「そういえば渋滞しているのを忘れていた」
「続いているね」
「渋滞が十二キロ以上だからな。まあ大丈夫だろう。時間はまだ一時間四十五分あるんだ。間に合うよ」
「そう?」
「そうそう」
気軽に言ってのける狗狼を私は疑いの視線を向けた。
「ここはベテランの運び屋の勘を信じて欲しいな」
ビシッと親指で己を指すベテラン運び屋。まあ、信用するけど。
「ベテラン運び屋の勘って、何処に行ったの?」
「何事にも例外は有る。今日はその稀有な例が当て嵌まる日だった。それだけだ」
後方へ物凄い勢いで流れて行く景色の速度を気にした風も無く、自称ベテラン運び屋は平然と答えた。
私達の乗る207SWは滋賀県道285号線を猛スピードで北上している。いま大見渓流沿いの大きなカープを通り抜けたところだ。
何故、北陸自動車道ではなく県道285号線を走行しているのかは先程の会話から解る通り、狗狼の勘が見事に外れて神田PAを抜けてから工事の為、片側一車線のみの通行となり再度渋滞に巻き込まれたのだ。
狗狼もこれは流石に間に合わないと判断して長浜ICから北陸自動車道を下りた。
ただ国道8号線や365号線は渋滞逃れの車両が押し寄せる為に却下。通常365号線から303号線に乗り入れるのだが、さらに車通りの少ない285号線を通り抜けると狗狼が自信たっぷりに提案した。
かくして運び屋のちっぽけなプライドを掛けて、本当に車通りの少ない285号線を遡っていく。
お寺の脇を通り過ぎて暫く行くと赤丸の中に×が組み合わされた記号の下に「通行止め」と赤文字で書かれた看板が立て掛けられたゲートが現われた。
「よし、噂通りゲートは開いているな」
「……え?」
ぎりぎり207SWが通れるぐらいの幅にゲートが開いている。
アクセルが踏み込まれ、ボンネットのプジョーのエンブレム、シルバーライオンが吠える様なエンジン音が誰もいないゲート前で鳴り響く。
「ちょっ……」
制止しようとする私の声など聞こえなかったかのように猛然とゲートを通り抜ける207SWと私達。
視界の隅で四角い黄色地に黒い三角形の頂点から黒い点が面に沿って描かれた標識が目に入る。
「狗狼」
「ん」
「見た事の無い標識が、あるよ」
狗狼は地面に転がる石を避ける様にハンドルを左右に動かし乍ら、私から標識の説明を聞く。
「それは、落石注意だな。斜面を下りてくる瓦礫にぶつかったり、地面に転がっている意思を踏んでパンクしない様にとの注意喚起の為の標識だ」
「……そう」
注意しても平然と突っ込む輩が此処に居ます。
道幅は広いけど、油断すると所々に転がった大きく尖った石を踏んでタイヤがパンクしてしまうらしい。
私はただ、濁流に飲み込まれた木の葉の様に(しゃれではない)頭を前後左右に揺らし乍ら、狗狼の運転に耐えている。
「此処は元々ダム建設の為の道路だった。それが中止になった今、開かずの国道として有名になったんだ。時折、工事関係のトラックが通る時はゲートが開いて通ることが出来る」
「でも、普通は通ったらイケナイんだよね」
「今日は神様に目を瞑って貰おう。通行禁止の区間は1キロ程度だ。じき終わるよ」
そう願います。
途中、道の途切れた区間もあったけど、何とか反対側の同じように開いているゲートを通り抜けた私達は集落に入り、「茶碗祭りの館」も前を通り過ぎる。
「茶碗祭りの館?」
「茶碗祭りは丹生神社の祭りで、陶器を繋ぎ合わされた三基の巨大な山車が街中を通る祭なんだ。確か滋賀県の無形民俗文化財かな」
狗狼の口から茶碗祭りについて説明があったことに私は驚いた。
普段、一緒に居ると祭とかと無縁な興味の無い生活をしているような気がしてたんだけど。
「祭ばやしも、丹生独特の曳山ばやしらしいから一度は聴いてみたいものだが」
「狗狼って、仕事と料理以外興味がないと思ってた」
私の言葉に狗狼は苦笑を浮かべる。
「運び屋をしていると、遠方に行くことが多いんだ。仕事の帰りで余裕が有ったら、その地域の有名処を周ることもあるよ」
ひょっとしたら狗狼は運転する事より、どこか遠くへ行くことが好きなのだろうか。
ただ独り、ぼんやりと煙草を咥えて、夕闇の中で祭を眺めている狗狼の姿が容易に想像出来た。寂しくは無いのかな。
それとも狗狼にとってはそれが普通で、私と一緒に居る事が余計な事なのかもしれない。
「湖乃波君、これから先は、また川沿いにぐねぐね道が続くから我慢してくれ」
「え」




