二章 眼鏡ともふもふと慟哭と(1)
二章 眼鏡ともふもふと慟哭と
1
朝の五時半、朝食と身支度を整えた私は福井県と石川県のガイドブックを愛用の茶色い皮のナップザックに放り込んだ。
このナップザックは狗狼の知り合いであるマオさんから頂いたもので、A4サイズの雑誌が入る大きさと皮を幾枚も重ねた厚底を持った頑丈な構造から、用途は休日の買い溜め用買物袋から図書館の図鑑を借りた時など実に使い勝手が良い。
マオさんは狗狼の古くからの知り合いで、三〇代(マオさんは前半と言っている)と若いにも拘らずこの町の中華系組織の重鎮を務めている。
彼女は何時もチャイナドレスを着用しており、そこから覗く長い脚とアジア系としては珍しい天然の金髪の下から覗く碧眼が彼女の美貌を際立たせていた。
そんな美人だから狗狼が声を掛けたり手を出そうとかしていないか気になったけど、狗狼とマオさんは狗狼が若い頃に南京街でアルバイトをしていた頃からの知り合いなので、親戚みたいな関係らしい。
狗狼曰く「お転婆な妹みたいなものだ」
ナップザックを背負って事務所に続くドアを開ける。
その部屋では狗狼がネクタイを結んでいるおり、出かける準備がほぼ整っていた。
ややネクタイの結び目が大きい結び方をして、綺麗な三角形になるように指先で整える。
「行くか」
ジャケットを羽織って振り返る。
黒の上下のスーツに白いカッターシャツ。黒のうっすらと紋様の入ったネクタイが彼の変わらぬ仕事着だ。きっと背広の内ポケットには折り畳みナイフが一本忍ばせているんだろう。
改めて見てみると、狗狼は黒のスーツ着こなした少しだけ恰好の良いオジさんといった雰囲気で悪くないと思うのは私だけだろうか。
サングラスを外すと少し目尻の垂れた細めの両眼が優しそうで良いと思うんだけど、彼は何時もサングラスを掛けているのが残念と思う。
外に出て空を見上げる。朝が早いけど既に日は差しており、事務所の前から海面に反射された容赦無い夏の日差しに私は眼を細める。
「今日も暑くなりそうだ」
見ているだけで暑くなりそうな運転手が呟く。そう思うなら夏向きの恰好をすればいいと思う。
倉庫横に止めてある狗狼の愛車であるプジョー207SWに掛けられたシートを外すと中から藍色の車体が覗くと共に熱い温められた空気が立ち上り、私と狗狼は二人同時に嫌そうに声を上げる。
「まあ、日差しはまだ弱いから、車内はそう暑くないだろ」
「……そうね」
狗狼は運転席、私は助手席に乗り込んでシートベルトを締めた。エンジンをかけて狗狼は車内のよどんだ空気を外に流す為、前後のドアのガラスを数ミリ下げた。
車のエアコン設定温度は二十四度。エアコンの苦手な狗狼にしてみれば、この温度設定は低く感じられるが、デリヘルドライバーの依頼を受けることもあるから、同乗する嬢に気を使っているのかもしれない。
「じゃあ、品物を受け取りに行きますか」
まずは今回の仕事の荷物である眼鏡を受け取るようで、神戸大橋を渡り元町へゴルフを進める。
栄町通り傍らの日栄ビル前に207SWを停めた狗狼は「昨日からここに詰めていると聞いたんだが」と呟いて車から降りる。
依頼主はこのビルの二階に店を構えるオーナーとも懇意らしく、試作品の幾つかはその店で扱う作家のデザインしたブランケットに合わせてデザインしたものと狗狼は説明してくれた。
暫くすると少しオーバーサイズのTシャツとコットンパンツ姿で、茶色く染めた長髪をひっつめ髪に纏めた女性が小さいダンボールを抱えてビルの入り口から出て来る。
「……」
左右を見回して私達に気が付くと彼女は頭上に段ボール箱と持ち上げた。
「くろーさーん。これ荷物だよーっ」
非常に間延びした声で呼びかける。
「……また徹夜してたな」
苦笑しつつ、狗狼は女性に近寄り段ボール箱を受け取った。
「今回も大変そうだが、何日寝てない?」
細面の彼女は女性にしては背が高く、狗狼とほぼ同じ百七〇センチはあるだろう。
彼女は狗狼に段ボールを手渡しした後、三本指を立てて目を細めて苦笑する。
「昨日で三日目なのよー。みーちゃんは布地を手にしたまま撃沈してるわー」
「それは大変」
二人の様子から、彼女の依頼は良く引き受けているような印象を受けた。
「まだまだ詰める所があるからね。今回は【北欧カフェ】がテーマだからこの店の食器や衣類が使えるのは助かっているけど。ただ、眼鏡となると普段使いでおしゃれなデザインってのはその道のプロの意見が欲しい。メールの画像じゃ相手も解らない事が多いからね」
「それで今回の依頼か」
そうそう、と相槌を打ちながら彼女は依頼用紙を狗狼に渡した。
ひょいっと彼女が私の視線を向ける。
「……」
「……お、お早う御座います」
取り敢えず挨拶してみたけど彼女は私をしばらく見つめた後、手を伸ばして私の両肩を掴んだ。
「ねえ、貴女、モデルをする気ない?」
「えっ」
傍らで狗狼が僅かに仰け反る。
「だって、ナチュラルに黒髪の美少女よ。これから先、どんどん少なくなる天然記念物よ。今の内に手に入れておかないと将来困るじゃないの」
そう叫びながら私を前後に揺さぶるので、私は頭をガクガクと震わせながら三半規管を狂わせていく。
「うーん、ポニーテールって本当に馬の尻尾みたいに揺れるんだな」
狗狼が私の揺れる髪を見ながら呟いた。
何、今言う事はそれ? 助けてよ!
「ていさん、落ち着いて。今は眼鏡を届けないと」
「え、この子、置いて行かないの?」
「置いて行きません。湖乃波君は今日の助手です」
狗狼の助け舟に、ようやくていさんと呼ばれた彼女は私の両肩を手放してくれた。
うう、頭がくらくらする。
「えっと、湖乃波ちゃんでいいのかな? 八月の終わり頃、詳しい日程は連絡するから予定を開けておいてくれないかな」
「は、はい?」
「絶対ね。御願いね。じゃあ、くろーさん、眼鏡お願い」
「はいはい」
名残惜しそうにビルに帰っていくていさんを見送った後、私と狗狼は暫く沈黙した。
「……マイペースな人だね」
「……まあ、仕事の鬼だからな、彼女」
「……」
「……行こうか?」
「……うん」




