一章 ご褒美ランチとベトナム料理(6)
ティエンさんはセンタープラザの地下街にベトナム料理の店【パイン ミー ティット】を開いている五十代のベトナム人男性で狗狼の客の一人だ。
先月、狗狼は仕事の打ち合わせのついでに、私にベトナム料理を食べさせようと店に連れて行ってくれた。
その時に注文した料理が鶏肉のフォーと海老の生春巻き、茹でブロッコリーと魚の炒飯で、スープの薄味ではないけどさっぱりとした食べ易さと、初めて味わう料理と甘酸っぱいタレの組み合わせに驚いていると、デザートの揚げバナナがテーブルに置かれた。
その揚げバナナを口にすると、衣のサクサク感と塗された細かく砕かれたアーモンド感触の中に温められることによりさらに甘くなったバナナの味が広がって、特上のデザート感が増している。うん、これは何本でも食べれそうと思った。
店名【パイン ミー テイット】はティエンさんが神戸の公園の駐車場で屋台を開いていた時に作っていた料理で、日本ではベトナムバゲットサンドと紹介されている。
狗狼とはその頃からの知り合いらしく、まだ屋台での売り上げが芳しくなかった頃、狗狼がテイクアウトを提案して手伝ってくれた御蔭で採算が取れるようになったと教えてくれた。
その時の狗狼は報酬はいらないのかと訊ねると、「昼に一本貰っているからいいよ」と頑として金銭を受け取らず、ただ同然で愛車のメルセデスベンツA190で公園から離れた山の手通りや湊川の喫茶店、時には西宮まで配達したらしい。
その後、ティエンさんの屋台の経営が軌道に乗り始めた頃に本国の組織との商売上の巻き込まれて危険な目にあったが、狗狼は当然とでもいう様に手を貸してくれて、相手との話し合いまで持ち込めるようにしてくれた。
今ではティエンさんはその組織の日本支部の会計を務めているらしい。
ティエンさんは、その後に狗狼へ助けてくれた理由を訊ねたけど「美味しいベトナム料理が食べれないと困る」としか答えてくれないと苦笑していた。
……多分、狗狼は真面目に答えていると思うけど。
多分、先々週に狗狼が作ってくれた夕食のベトナム料理はティエンさんに習ったものだろう。いや、ひょっとしたら厨房の仕事も自発的に手伝って覚えたのかもしれない。
そして今度は私が狗狼からレシピを教わって夕食を作っている。
「いただきます」
「いただきます」
二人同時に両手を合わせて唱和する。
ママは私に必ず食べ物に手を付ける前に、「いただきます」と唱えて食べ物に手を合わせるように私に言って聞かせた。それが食べる私達の食べられる野菜や動物へお礼であり、食事を作ってくれる人達へのお礼になると。
私も料理するようになってママの言葉の意味を理解出来る様になった。
料理の材料は勝手に出来上がるのではなく、農家の努力があってこそ、私達に美味しいものが提供されている。
またそれらをそのまま食べるのではなく、食べやすく食事を用意するのは大変で、料理する人が相手に食べて欲しいから作ってくれるのであって、勝手に出来上がるのではない。
食べる人はそれを忘れない事、ママはそう言いたかったのだろう。
狗狼も自然に食事の前には手を合わせている。彼もママと同じ思いでいてくれると嬉しい。
狗狼は野菜のフォーの碗を手に取るとそれに口を付けた。彼の喉仏が僅かに動くのを私は息を止めて注視する。
「……」
それから彼は碗を下してフォーを箸で数本摘まむと口に運んでそれを啜った。
狗狼は目を閉じてフォーを咀嚼した後で口元を僅かに上げ笑みを浮かべる。
「初めて自分で作ったにしては上出来だ。ベトナム料理特有のさっぱりとした鶏のスープの味も悪くない」
我が家のシェフの言葉に私は肩の力を抜いた。温め直したのでスープの味が濃くなっていないか心配だったのだ。
私は揚げ春巻きに箸を伸ばしてひとつ摘まむと、口腔内に放り込んだ。噛みしめると中から甘い肉汁が染み出す。うん、美味しい。
私と狗狼は食事中は口数が少なくなるタイプだ。お互い料理を味わうのに没頭するタイプで、主な会話は食後のティータイムとなる。
その逆がカテリーナで、彼女は食事中にその料理の感想から始まり、その店の第一印象、食事後の予定など、矢継ぎ早に言葉が飛び出し内容が巡る増しく変化するのだ。
そして食後のティータイム、デザートはお待ちかねの揚げバナナ。
私は同じ年頃の女子同様、デザートが大好きだ。特に果物を元にした素材の甘さを生かしたお菓子は大好きである。
アルミホイルから取り出されて更に並べられた揚げバナナの一本をフォークで突き刺してから一齧りする。
揚げバナナ万歳。
温められて甘味の増したバナナと、その衣である米粉に混ぜられたココナッツミルクの甘さが上手く合わさっていて、単純な工程で絶妙なデザートを作り上げている。
もう一切れに手を付ける前に狗狼の淹れてくれたベトナムコーヒーでのどを潤す。
うわっ、これもちょっと苦めのデザートだよ。練乳と濃い目の珈琲の組み合わせがが苦甘い。
再び揚げバナナを口にする。良いよね、これ。
喉下を過ぎた揚げバナナの余韻を楽しんでいると、対面に座った狗狼がナニやらにやにやして私を見ていた。
「な、何?」
表情を引き締めて彼に向き直ると、狗狼は口元を押さえ前屈みになった。片が僅かに震えている。
「な、何、何か私、変な事、した?」
私の問い掛けに狗狼の震えは増々大きくなった。何なの?
狗狼は右手を上げて掌をこちらに向ける。一寸待って、と言いたいらしい。
狗狼はようやく顔を上げると今度は苦笑を唇の端に浮かべて目を細める。
「いや、此処に来て、湖乃波君の表情があんなにころころ変わるのは初めて見たな」
「え」
「女の子にとってデザートは偉大って事か。いや、勉強になった」
「え、え?」
「これから、週末の晩御飯はデザートを付けようか?」
何それ。私は混乱する思考を纏めようと彼に訊ねた。
「……そんなに、表情が、変わってた?」
狗狼はうんうん、って二度頷いた。一度でいいって。
「揚げバナナを真面目な顔でフォークで刺してから、口に放り込んだ途端目を閉じて微笑んで、それからベトナムコーヒーを飲んで目を丸くしてからもう一口飲んで宙を仰いだ。それから、また揚げバナナを」
「もういい」
私は狗狼の説明を聞きながらどんどん顔が赤くなっていくのを自覚した。私は一切表情を変えていないつもりだったのに、そうではなかったらしい。うう、恥ずかしい。
「仕方ないよ。だって、美味しいから」
「そうだな。ティエンさんの料理の腕は超一流だな」
私は彼から顔を背けて食器を流し台に運ぼうと立ち上がった。
「残り二切れも食べていいんだが」
ピタリと私の手が停まる。
そうだった、狗狼は甘いものを食べない。甘いものは苦手らしく、カテリーナに元町の甘味処を案内させられ時も、彼は何も食べずにその光景をただ眺めているだけだった。
そのくせ、以前作ってくれたアップルパイは絶品で、一緒に口にした富樫母娘や美文さんも驚いていた。
「駄目、こんなの駄目。私、太っちゃう」
そう呟きつつ美文さんは二切れも食べてしまった。
それはともかく、残り二切れの揚げバナナだ。あんな事を言われてどんな顔をして食べろというのか。
「食べないのか?」
タベナイワケナイジャナイデスカ。
私は無言で再び席についてフォークを手に取った。
「……」
平常心、平常心。私はそう唱えながら揚げバナナをフォークで突き刺して口に運ぶ。
もぐもぐもぐ。
平常心平常心美味し平常心平常心。
狗狼がソファーに倒れ込む。
「だ、駄目だ。腹筋が引きつる」
「……」
今、私はどんな表情をしているのだろう。誰か教えて。
息をすることもままならないのか、呼吸困難の様な音を立てて咳き込む狗狼を無視して私は揚げバナナを平らげた。
ソファーから身を起こした狗狼は笑みを浮かべたまま食器を手に取る。
「用意は湖乃波君がしてくれたから、後片付けはやっておくよ」
本日の夕食も二人とも完食。
「ご馳走様」
「お粗末さまでした」
食器を重ねて流し台に運ぶ狗狼の後姿を見送る。
「日曜日は中華で、デザートは胡麻団子か杏仁豆腐、どっちがいい」
「……どっちでもいい」
恥ずかしいので返事は保留。
全く、今日は進路について話そうと思ったのに。態勢を整えて明日話し合う事にする。




