一章 ご褒美ランチとベトナム料理(4)
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「ただいま」
玄関の鍵が開いていたので狗狼が帰っている事が解った。
私はドアを開け乍ら声を掛ける。
「……」
返事は無い。
扉から五〇センチ奥に簀の子が置いてあり、そこまでが玄関で、簀の子の上には私用の白いスリッパと来客用の茶色いスリッパが置かれている。狗狼のスリッパは無い。彼はスリッパを履かずにそのまま靴下で過ごす。
倉庫だから三和土の様な段差は無いので、扉を開けると野外からの風に乗って外の塵や埃が直接室内に入って来て、掃除が非常に手間が掛かって困る。
狗狼もスリッパを履かないとすぐに靴下が汚れるのを解って欲しい。
いた。
来客用兼私達の食事の場であるガラステーブルの手前に置かれた黒いソファーから、黒のスラックスを穿いた片足がニョキッと突き出していた。背もたれから覗き込むと、狗狼はソファーの上に寝転んでお昼寝の最中だ。
先日、あまりにも彼の寝起きの癖毛の跳ね上がりが酷いので、襟足から髪を切ってあげてさっぱりとした印象にした。
寝息に彼の胸が上下する。
彼の黒背広は来客用のソファアに掛けられていて、彼が仕事から帰って来て直ぐに眠りに落ちた事を物語っていた。
いつ帰って来たのだろうか、腕枕をしているので目が覚めると痺れて感覚が無くなってしまわないか心配だ。
運び屋である彼の仕事時間は夜間が多い。夕方に出かけて早朝に帰って来る。そんな生活をしているので、実際、狗狼と私の会話する機会は非常に少ない。
狗狼も私も積極的に会話するタイプではないので、日曜日の食事の用意以外は会話のきっかけを探すのに苦労している。
それで、結局、
「背広をハンガーに掛けて」
「ドアに鍵を掛けて」
「倉庫内で煙草を吸わないで」
とか、小言が多くなってしまう。
誰か上手な会話の始め方を教えて下さい。
狗狼を起こさないように、そっと静かにガラステーブルの上へ買い物袋を置く。
今日の夕食は先々週狗狼にならった野菜のフォーと挽肉と人参の揚げ春巻き、鶏のレモングラス御飯に挑戦することにした。フォーのスープをいかに再現するかが今日の料理の肝と思う。
そう言えば狗狼と一緒に夕食を取るのも久し振りの様な気がする。
ああ、そういえば明日から夏休みだから、朝、昼、晩とも狗狼を食事する事が増えるんだ。よし、この機会だから料理のレパートリーを増やしていこう。
ひょっとしたら卒業後の就職にも有利になるかもしれないし。
自分でも意外なほど狗狼との食事を楽しみにしていた事に驚きつつ、私は肉類を追一旦冷蔵庫に収める。この倉庫はそれほど冷房が利いていないので、夏場は短い時間でも生物を冷蔵庫へ入れておくことにした。
スープの準備をする為、大根を手に取って皮を剥こうとした時、ふと昼ご飯時に小柄な店員さんと交わした会話を思い出した。
食材廃棄ゼロ。大根の皮を剥かずに煮込んだら味は変わっちゃうのかな? 玉葱は表面の外皮だけを剥いて使う事にする。生姜も同様丸ごと使う。
コッフェル(先月に何処からか手に入れて来たらしい)に水を入れて、仔牛の骨付き肉、鶏ネック、野菜を放り込んで中火で二時間煮てスープを作る。その間に人参と挽肉の揚げ春巻きを作ろう。
玉葱、きくらげ、人参、大蒜をそれぞれみじん切りにして豚挽き肉と混ぜ合わせる。短く切った春雨を添えてライスペーパーで巻く。
巻いたら両端を水で溶いた片栗粉を塗ってくっ付ける。
二本目までは上手く巻けずライスペーパーから具が零れたり、変に力が入りぺしゃんこになったりしたけど、三本目からは形が整って五本目で理想的な形になった。
慣れてくると中々楽しく、十二本ほど作って一息つく。これくらいあればいいかな。
中華鍋に菜種油を入れようとしたところで、ドアをノックする音が聞こえた。
最初は小さく二度、その後少し強めに二度。
私はコンロの火を消すと、エプロンを掛けたまま狗狼を起こさない様に少し急ぎ足でドアへ向かった。
「はい、どちら様でしょうか」
つい、勢いよくドアを開けてしまった私に驚いたのか、お客さんは僅かに仰け反って私を見下ろした。
ややくすんだ赤毛のショートカットに、まつ毛の長い切れ長の眼をした少年のような風貌の綺麗な人だった。
狗狼とはまた違った意味でスーツが似合っている。
私はドアを開けたまま、お客さんは僅かに仰け反った姿勢で暫くお互いを見つめ合っていたけど、彼、彼女? は気を取り直した様に咳払いしてその青い瞳で私を見返した。
「そうか、子供を引き取ったって言ってたな」
「は、はい、私です」
私は慌てて頭を下げる。
お客さんは慌てる私に苦笑して手で制した。
「ああ、そんなに恐縮しなくていいよ。私はそんなに偉い訳じゃない」
お客さんの澄んだ声は女性としか思えないけど。
「彼奴は普段、人と距離を置きたがるのに妙なところでお人好しになるから。結構危なっかしい奴だけど仲良くしてあげてくれ」
「?」
何処か懐かしそうに語るお客さんは、私が話題について行けず目を丸くしていると、我に返ったように裏返った声を上げた。
「あ、ああ、今言ったことは忘れてほしい。くろ、ブレードには内緒でお願いする。それで、く、違う、ブレードはいるか? フランコが頼みたい用件があると伝えてほしい」
何故か顔を赤くして慌てているお客さん。
フランコだから男の人、女の人はフランカだし。
学校で習ったイタリアの性別による名前の違いを思い出しながら私は狗狼を起こそうとして倉庫内へ振り返った。
「……騒がしいと思ったらフランカか。何か用か?」
「……」
「……」
目が覚めたのかソファーから上体を起こし、何時もサングラスの奥に隠れている何処か眠そうな半眼を更に眠そうにしながら問い掛ける狗狼を私達は見返した。私は「この人は誰?」の問い掛けで。お客さんは何故か抗議するように半眼で狗狼を睨み付けている。
「……あ、悪い、フランコだったな」
お客さんの視線の意味に気付いたのか、狗狼はばつが悪そうに髪を掻き上げてからガラステーブルの上に置かれた煙草ケースを手に取って一本抜き取った。
アークロワイヤル・ワイルドカード。
黒地の箱にオレンジ色の表示が特徴的なこの煙草は、火を付けると珈琲の甘い香りが漂い、国産の煙草と違い傍で喫煙されても煙草臭さを感じない。
私にとっては狗狼の匂いはこの煙草の匂いだった。
ただ、煙草臭くなくともニコチンもタールも煙には含まれているので、室内の喫煙は遠慮して欲しい。




