四章 レッド・バード(2)
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本日に、いや正確には昨日と言ってもいい時刻だが、再び訪れた半裸の女性が壁一面にでかでかと描かれたキャバレーの前に立って煙草を吸っている。
別に下から壁に描かれた女性の下着を覗きこんでいるのではない。これからどうやってこのキャバレーの中に居る奴らを相手にするか、珍しく考えているのである。
時間が時間だから勢い勇んで来たものの、店は営業時間を過ぎており誰も居ませんでした、というオチがついたらどうしようかと心配していたが、窓から洩れる明かりと男達の話し声から中に誰かがいるのは確からしい。
いざ、中に入ればTVと新入りの掃除人が独りだけでない限り、一対多数の荒事が待っている。
煙草の灰が足元に落ちる。一応、煙草を一本吸い終るまでの間に策を考えようとしたが、我が灰色の脳細胞はどうやら何も思いつかなかったようだ。
何時もの様に「まあ、なんとかなるだろう」と半ば人生を放棄するような結論に達し、ジェラルミンケースを片手にキャバレーの出入り口へ歩を進める。
ドアを上品にノックしても良いが、それだと報復の開始の合図としては迫力不足だ。ここはひとつ、ありふれているが俺のメッセージが解るよう強く行くべきだ。
腰の後ろから予備の折り畳みナイフを取出し刃を起こす。それを軽く振りかぶってドアの上に配置されたカメラに投擲した。
割れるレンズ。
ドア前に誰がいるのか解らないようにしておく。
「よし」
右足を持ち上げ、出入り口のドアを二、三回蹴っ飛ばした。意外と丈夫で蝶番が軋むものの、ドアが店内に倒れ込むといった映画のような演出には至らない。
ドアの向こうから誰かの近付く足音を聴きながら、胸ポケットから空港で白スーツより分捕った磁気カードをジェラルミンケースの取手のスリットに通しておく。
取手の液晶表示が00:52から減少を始める。
残り数秒で「誰だ!」と語気荒く、一見して堅気でないと判るオールバックで細身のサングラスを掛けたダークスーツがドアを勢いよく開けて俺を睥睨した。
「チャオ」
下からジェラルミンケースの角を顎に叩き込まれたダークスーツが仰け反り倒れるより早く、俺は店の中央のテーブルに腰掛けた一番値の張りそうなグレーの背広を着た偉そうな初老の男に向けてジェラルミンケースを投擲、直ぐにドアの陰に身を隠した。
「イッツ、ショータイム」
俺の掛け声と同時にキャバレー店内に轟音が響き渡る。小規模な爆発だが至近距離にいた者達は爆風に身体を持って行かれて宙を舞う。死んでなきゃいいが。
肝心のマルコ氏は床に這いつくばり、あたふたと尻をこちらに向けて逃げようとしている。
ちっ、しぶとい奴。
俺は店内の奴等が事態を把握するより早く、マルコ・チャリチャンミの背中に向けて駆け出した。
奴に到達するより早く俺に掴みかかろうとした店員の顔面に掌底突きを叩き込んで吹き飛ばし、その勢いのままマルコの背中を幾分か手加減して蹴っ飛ばして店の奥にあるステージ台に頭から突っ込ませる。
「運賃を支払い願います。違反者である貴方には前回の八十万と今回の危険輸送一時間五万円×五時間で二十五万円、偽の依頼だから契約違反として五倍の百二十五万円。よって合計二百五万円の支払い義務があります」
丁寧に突っ伏したマルコの尻に向かって説明する俺へ、マルコの部下である店員が襲い掛かって来た。
何だ、せっかく人が支払いについて説明してやっているのに、良心的な運び屋に対する礼儀がなっていないな君達は。
折れたテーブルの脚を拾い上げて右脇に構えるとボーイが右手に握ったナイフを突き出してくるのに合わせて、俺は膝を軽く曲げて腰を左に回し、両手に握ったテーブルの脚を突き出す。
惚れ惚れするくらいのタイミングで右手首を打たれたボーイが、取り落としたナイフを拾うより早く、俺はテーブルの足を斜め青眼に構え直し、歩を進めてボーイの頭頂に拝み打ちに振り下ろし昏倒させた。柳生新陰流の確か【一刀両断】だったかな。
暫く剣術から遠ざかっている為、それの技名を忘れていることに憮然とする。まあ、体が動きを覚えているからいいか。
そこへナイフやらフォーク、モップやトイレ詰まりを治すアレを持った男達が俺を取り囲んで来たので、テーブルの脚で片っ端から叩き伏せていると、しびれを切らしたのか、以前俺をこの店に送迎した運転手がジャケットの懐に手を入れて何かを抜き出す。
「やばっ」
厨房らしき部屋に飛び込んだ俺を追って、銃弾が壁をへこませる。
「飛び道具、卑怯なり」
巻き添えを食ったのか、床に伏せて震えている小太りの男に片手を上げて挨拶してから、俺は火に掛かったフライパンを手に取り、ドアを蹴破って追ってきた運転手に投げつける。
反撃が来るのを予想してたのか、とっさに身を低くしてフライパンを避けた運転手に、わずかに遅れて放物線を描いて投げつけたオリーブオイルを入れた缶が落下して、その全身をオリーブオイルまみれにした。
うわっ、可哀想に。
「撃つなよ、撃つと火傷するぞ」
本当は拳銃の火花程度で引火する事は無いのだが、はったりも時には必要だ。
はったりが通じたのか運転手は拳銃を傍らのテーブルに置くや、ファイティングポーズをとって俺を威嚇する。
うん、君はとてもいい人だ。
俺もアメフトのタックルの様に身を低くして構え、一気にダッシュ、と見せかけて厨房の奥に踵を返して逃亡した。おっ、と背後で驚愕する声に続いてけたたましい金属音と罵声が厨房の狭い室内でこだまする。
振り返ると転んだのか運転手は黒いワイシャツと黄色のネクタイの前を、オリーブオイルの緑色に汚して起き上がろうと床に手をつく。
厨房は専用のスリッパを履いていないとこぼれた油やら水気やらで滑り易い。
特に運転手の履いている革靴の靴底は硬いゴム製だろうから、一度靴底に油が付くと靴底の底に油が入り込み満足に歩いていられない状態だろう。
しかし俺は、その哀れな被害者に敢えて鞭を振るわねばならない。ああ、なんて非情な世界であろうか。
俺は棚に乗せられた大ぶりなコッヘル、コッヘルというのは西洋の煮込み用の鍋だが、それを運転手の頭に被せ、右手で調理台の引き伸ばし棒を取ると、コッへルの上から、上、前後、左右を滅多打ちにする。
コッヘルの中で運転手が何か喚いているが、コッへルの打撃音がその言葉を俺の耳に入るのを邪魔していた。
スター○オーズだかスーパ○マンのテーマかどちらか忘れたがリズムに乗って叩き続けるのも疲れたので手を下ろすと、運転手はコッヘルを被ったまま立ち上がりふらふらと歩き始めた。
「お、おい」
森の奥に住む演奏家のインドの虎狩りを聴き終えたばかりの珍客の様な足取りで厨房のドアを潜り、そのままばたりと倒れ伏してぴくりとも動かない。
「……」
やりすぎたか。
俺は厨房の片隅で壁に張り付いているコックを振り返ると、コックは次が自分が痛めつけられるとでも思ったのか、ビクリと肩を震わせる。
「ジンジャーエールは無いか。本当はウオッカかジンが飲みたいのだが車で来てるんだ」
コックは二、三度頷くと冷蔵庫らしい大ぶりな銀色の箱から炭酸水の瓶と黄金色の芋に似た根菜、とろみのある液体の入った小振りの瓶を取出し机の上に並べて、根菜を摩り下ろし始めた。
生姜の香りが鼻腔を刺激する。
「へえ」
この店はジンジャーエールを作ってくれるようだ。てっきりカナディアンドライのジンジャーエールが出てくるものかと思っていたが、これは中々楽しみでもある。
摩り下ろしたショウガ、アガベシロップ、ソーダ水を順番に、クラッシュドアイスを半ばまで詰めたグラスに注いでおそるおそる厨房のキッチンに置いた。
「グラッチェ」
コックに礼を言ってグラスを手に取り口に付ける。
良し。生姜の苦味に強い炭酸の刺激。微かに感じられるアガベシロップの甘味がアクセントとして効いている。いや、これはとても良いものだ。
俺はコックに、右手の親指を立てて突き出し破顔してみせた。これだけでこの店に通う価値はある。




