四章 レッド・バード(1)
四章 レッド・バード
1
「ここでいい。今日は助かった。今、運び賃は幾らだ? 直ぐ支払うから待っててくれないか」
俺は自宅兼事務所兼倉庫の前にJCWGPを止めてエンジンを切った。多少の貯えがあるから今日の運び賃は何とか払えるだろう。
明日から、いや、明日があればだが、次の大きな仕事にありつけるまで節約第一の生活を強いられるのは間違いない。
「ロハでいいわ。解ってる。私が助けられたんでしょ」
「そんな訳にはいかないな。運び屋同士、報酬はきちんと払わせて貰う」
運び屋が運び賃を払わないのは、自分自身の存在を貶めることになる。それは俺のプライドが許さない。
倉庫に入ろうとドアノブに手を掛ける寸前、それは自ら回り俺に向かって扉を開いた。
別に自動ドアに作り替えたのではない。倉庫の中から何者かがドアを開けたのだ。
そして、その何者かの心当たりは、俺には一人しか思いつかない。
「その、ただいま、湖乃波君」
長い黒髪の少女は寝る前だったのかクリーム色の無地のパジャマ姿で俺を見上げていたが、俺の背後にいる小型車のドライバーに気付くと彼女に小さく頭を下げた。
「ああ、彼女は同業者で仕事を手伝って貰ったんだ」
何故か後ろめたさを感じつつ、俺は彼女を湖乃波君に紹介した。彼女は湖乃波君に小さく「どうも」と呟くと、俺を睨みつける。
「そう、なんだ。車が置いてあったから、すぐ、帰って来るかと、思ったよ」
湖乃波君はどうやら眠らずに待っていたらしい。簡単な書置きしか残さなかったのが拙かったか。
彼女は感情を表に出さないので、遅くなったことを怒っているのかいないのかはっきりとしたことは解らない。
ただ、心配してくれていたのだろうということは何となく解る。
「もう、仕事は、終わった?」
湖乃波君の問い掛けに俺はレイヴァンを外しながら苦笑いで応じた。
「いや、まだ後始末が残っているんだ。此処には彼女への報酬を支払いに来たんだ」
「……」
僅かに湖乃波君の表情に陰りが生じたようにも見えたが、それは虚空に浮かぶ月の光が、横切った黒雲に遮られて出来た影のせいかもしれない。
「そうだな。湖乃波君、俺が金を用意している間、彼女にお茶でも入れてくれるか」
六月で蒸し暑いとはいえ、夜中に海からの風に当たり続けると風邪を引くかもしれない。
こくりと湖乃波君が頷き「どうぞ」と開いたドアを手で示し、彼女に中に入るよう促した。「ど、どうも」と彼女もぎくしゃくと頭を下げ倉庫に入る。
俺が応接室兼台所に足を踏み入れると、部屋の中央にあるガラステーブルの上に置かれたパスタ用の角皿とそれに盛られたパスタが目に入った。
パスタは茹でてから時間が経つと表面の光沢が無くなりパスタ同士がくっついて食べ辛くなるが、このパスタはオリーブオイルを軽くまぶしてパスタ同士がくっつくのを防ぐと同時に食べる時の再加熱の時間を短くしている。
おそらく俺の食べる分のパスタは一度茹でてからザルに避け、オリーブオイルを垂らして軽く馴染ませたのであろう。
多分、いつ俺が帰って来てもすぐ食べれるように。
「あ、テーブル、片付けます」
湖乃波君はそれをいそいそと流し台横の調理スペースへ運んでお茶の用意を始める。
水道水を沸騰させて、三つ取り出した小さめの湯呑に注いだ後、今度は湯呑のお湯を急須に移した。暫く置いた後に急須のお湯を湯呑に移してから茶葉を入れる。
「……何で、一旦湯呑にお湯を入れるの?」
湖乃波君の手の動きを追っていた彼女が、不思議そうに湖乃波君に尋ねる。
「はい、こうすると急須と、湯呑も、温まるし、お湯もお茶を入れる適温に、下がるんです」
湖乃波君が何故か恥ずかしそうに顔を俯かせて答えた。慌てたようにいそいそとお茶を注いだ湯呑を俺と彼女の前に置く。
「ど、どうぞ」
「あ、ありがと」
彼女はゆっくりとした動作で湯呑を両手で包み込み、一口だけ口を付ける。
「……甘い。美味しい」
彼女はそう呟くと、二口三口と喉を潤す。
それを息を止めてみていた湖乃波君もほっと相好を崩した。
そうか、初めてお客さんにお茶を出したんだ。それは緊張するよな。
俺も湯呑に口を付ける。うん、いい出来だ。俺より淹れ方が上手いかも知れない。きっと俺の留守中に何度も練習を繰り返したのだろう。ナチュラル○ウスの無農薬緑茶は八十グラム千二百円とやや高価だが、玉露に負けない旨味と甘味を楽しませてくれる。
「じゃ、これが報酬。ご苦労さまでした」
俺は彼女への報酬を入れた封筒を、彼女がお茶を飲み終わるのを待ってから手渡した。
彼女は封筒の厚みに眉を寄せ、中を覗き込んでから俺を見上げる。
「何も言うな。多い分は危険手当だ。君はそれに見合う分の仕事をしてのけた」
湖乃波君が、むーっと抗議の視線を向けてくるのを気付かない振りをして俺は手を振った。
美人の前だ。少しは見栄を張らせてくれ。
「解った。後で返せと言っても返さないから」
彼女の答えに俺は苦笑で応じる。
彼女への報酬で何日分の食費とバーのツケが支払えるか。きっと俺は女で自滅するに違いない。
支払った分は後できっちり回収することにしよう。取れる所からな。
「じゃあ、ちょっと後始末に行ってきますか」
「待って」
腰を上げて歩き出そうとした俺を彼女が呼び止め、湖乃波君が僅かに身を震わせて彼女に目を見開いた。
「やはり、私が行く方が良い。貴方は、その……」
彼女は俺へ身を寄せて、湖乃波君へ聞こえないよう小声で俺を留めようとする。
身近な彼女の薄いピンク色の唇と、六月の暑さと湿気の為か皮ジャンの襟元から鼻孔をくすぐる彼女の体臭の甘さに立ち眩みを覚えるも、俺は理性を総動員しながら表情を引き締め視線を向ける。
目を伏せた彼女が何を言っているのかは解る。彼女は俺に何かあった場合、残された湖乃波君を心配しているのだ。
無事に帰れる保証も無いのに、お前はこの娘を置いて行くのか、と。
それに対しては、そうだとしか言いようがない。
野良犬の生活を送るこの俺の最後は、裏路地で人知れず死んでいくのが当たり前で、家族や大事な物など持たない事が鉄則だ。
大事なのは己の矜持、ルールを守り抜くこと。
天にいる超越者の悪戯か、中学生の娘と同意する事となってしまったが、それだけは俺は変えることが出来ない。それは湖乃波君も薄々は解っているはずだ。
「余計な心配は無用。俺に落ち度も無いのに、美女の背中を見送るのは男にとって屈辱でね」
俺はレイヴァンを掛け直してから背広の内ポケットに手を差し込み、ふと手を止める。
つい癖だ。湖乃波君の前では室内で煙草を吸わないと決めていたんだが。すぐに破りそうになるルールだな。
俺は彼女に背中を向けて手を振ってから、肩ごしに振り返った。
「そうだ、もしよければ朝までここで休んでいくと良い。そのソファーベッドで済まないが。湖乃波君も気にせず先に寝てていい」
それだけ言い残してドアに手を掛けた俺を彼女とは別の少女の声が呼び止める。
「あ……く、狗狼」
足を止める。
呼び止めた声に含まれた何かが、俺に振り返ることを躊躇わせた。
「その、今日、ね。朝言った通り、ゴーヤーを、買ってきたの。だから、明日は一緒に、ゴーヤーチャンブルーを、作ろ、ね」
振り返れない、俺は今、振り返ってはいけない。
俺は無言で外へ出て、倉庫の中との関係を断ち切るように静かにドアを閉めた。
BMWミニからアタッシュケースを取り上げて、倉庫横の愛車プジョー207SWまでの十歩程度を歩き始める。
一歩一歩、進めるごとに心を固く冷たく変えていく。そして、ドアを開け運転席に身を沈め、キーを回しエンジンを咆哮させた時、ようやく野良犬に相応しい自分に戻ることが出来た。
さあ、ここからは運び屋【ブレード】の時間。二度、命を狙われた落とし前はつけさせてもらうぞ。




