三章 着払いは高くつく(3)
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セントレア大橋を通り過ぎたところで、ハンドルを握る彼女はちらりとジェラルミンケースへ目を走らせて、別に関心を持った風も無くポツリと俺に問い掛けた。
「ねえ、どうやってその輪っかを外したの。輪っかを開くと爆発するんでしょう?」
「ああ、それか」
俺はまだ痛む右掌を伸縮包帯でテーピングしながら苦笑した。別に難しい事では無いからだ。
「土山SAでトイレに寄ったじゃないか。その時に手洗い場で手が輪っかを通り抜けられるように小指と親指の付け根の関節を外して、掌にたっぷりと石鹸水を塗って強引に引き抜いたんだ。痛みさえ我慢すれば誰にでも出来る事だよ」
「我慢すれば、ね」
「死ぬよりましだよ」
俺の右手を一瞥して彼女は肩をすくめた。
取り敢えず俺達は遅い晩飯を取ることにして土山SAへBMWミニを乗り入れる。
あと三時間はドライブを続けなければならないので彼女にも休息は必要なことと、それに、ここでの食事を取るべきだと彼女が主張したからだ。
「じゃあ、約束通り御馳走になるわよ」
「まあ、俺は別に構わないけど。どうせなら帰ってからいい店で食事を奢りたいのだが」
「ここでいいのよ」
「?」
二十二時を過ぎると人影もまばらであり、日中は非常にごった返すフードエリアも今は閑散としたものだ。
俺は入り口右手のコンビニでハムサンドとカナディアンドライのジンジャーエールを購入した。今夜はまだ終わらないので腹一杯になるのは控えておこう。
しかし彼女は違ったようだ。
彼女は俺がコンビニから出てくるのをフードコーナーの券売機の前で待ち構えており、焦れた様にブーツの踵で床を小突いていた。
「ねえ、早く」
出来れば別の場所で聴きたい言葉だが、生憎、彼女の差し出した手は俺に対する親愛の印では無く、さっさと晩飯代を寄こせという事だろう。
「何か美味いものでもあるのか?」
彼女の掌に空港の駐車場で白スーツから失敬した万札を乗せた。
彼女は鼻唄交じりに券売機の投入口に差し込み、目的の料理のボタンを押す。
そのボタンは他のボタン同様味も素っ気もないブロック体で無造作に料理名が記されているだけだ。
豚重。九百八拾円。
「……」
土山SA内には近江牛専門のレストランも併設されているが、あいにく平日は二十一時三十分閉店であり、この時間帯では食事にありつけない。
だが近江には近江ブランド豚があり、その肉がこの豚重に使用されているなら非常に安かないか。
テーブル席でなくカウンターに二人で並んで腰掛け、豚重の食券の番号が呼ばれるまで待つ。
「何?」
サングラスの奥から彼女を見つめているのに気が付いたのだろう。彼女は無料サービスのほうじ茶から口を放した。
「いや、君は豚重を食べた事はあるのか?」
「ないから頼んだのよ。この仕事は時間厳守で落ち着いて食事もとれないから、いい機会だわ」
「そうか、ならいいんだ」
彼女が満足するならそれでいいじゃないか。
俺は無理やり自分を納得させてサンドイッチの包みを剥がした。ジンジャーエールを先に一口飲んで喉を潤す。惜しむらくはカナディアンドライのジンジャーエールは万人向けに生姜も炭酸もそれほど強くない事だ。俺は微かな生姜の辛みがあり、炭酸が舌を叩く感触を楽しみたい。
スピーカーから、彼女の頼んだ豚重が出来上がった事を告げる調理のおばちゃんの声が響く。
「はいっ」
立ち上がり様、彼女の唇から洩れた気合の入った声に俺はサンドイッチを喉に詰まらせかける。そんなに食べたかったのか。
豚重弁当の四角い箱を乗せたトレイを胸前に掲げて帰って来た彼女の端正な顔には、これまで見た事も無い笑みが浮かんでいた。
これだけで倍の二千円の価値はあると断言していい。
よくやったぞ、豚重。
彼女はカウンター席に腰掛けると両手を合わせて、「では、いただきます」とうな重に一礼した。
ひょっとしたら彼女はかなり育ちがいいのかもしれない。そんな優雅で自然な仕草であった。
タレの染み込んだ豚の切り身を御飯ごと口に頬張り目を閉じて咀嚼する。
「あ、意外と美味しい」
意外そうに豚重弁当を眺めた彼女は二口、三口続けて豚重を味わう。どうやらお気に召したようで普段の彼女の愛想の無いどちらかといえば攻撃的な切れ長の目は、柔和な色を浮かべていた。
俺は五分程度でサンドイッチを平らげていたので、ジンジャーエールのペットボトルを片手に彼女の食事する様を眺めることにする。
四月から湖乃波君を引き取り一緒に食事するようになって解ったのだが、俺は美味しそうに食事する人の仕草や表情を見るのが楽しいと感じる事だった。
今までは一人で食事するのが普通であり、外で食事する時も人と離れた席を選んで食事を摂っていた。
しかし湖乃波君と食事を摂るようになってくると、普段の湖乃波君はあまり感情を表に出さない物静かな子だが、自分の作った料理が上手く出来た時は一口食べた後、口元に笑みを浮かべる。
また俺が料理を作った時は一口食べた後、目を閉じてその味を記憶するように粗食して笑みをこぼす。
時々、食べながら感心するようにコクコクと頷いたりもする。
そんな時は俺も自分の作る料理の腕も捨てたものでは無いなと、満足している。
そして、俺はまたその仕草が見たくて料理の腕を振るってしまう。
「……あ」
食事を終えて俺が彼女の食事する仕草を見物していたことに気が付いたのか、彼女は添え物でついてきた味噌汁の碗を手にしたままこちらを向いて顔を赤くした。
「何、笑ってるの、貴方は。そんなに可笑しい?」
「いや、本当に美味しそうに食べるんだな。いや、いいものを見せて貰った」
「う……」
増々、彼女は顔を赤くする。照れたように視線を逸らして咳払いした。
「いや、前からSAの券売機で豚重って珍しいから気にはなってたのよ。ただ、値段が値段だから頼んで美味しくなかったら悔しいし。だから今日は奢って貰えるから美味しくなくても他人の払った金だからショックは少ないかなと思って食べてみたの」
「成程、合点がいった。で、評価は」
グッと右手の親指を突き出す。うん、それは良かった。奢った甲斐があった。




