一章 女運び屋 BMW MINIを駆る(5)
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何かを叩く音がする。いや、これはスリッパの立てる足音だ。その足音の主がせわしなく、事務所兼台所兼俺の部屋を行き来する音だ。
俺はベッドを兼ねた黒のソファから身を起こした。いつの間にか身体に掛けられたタオルケットが床に滑り落ちる。少し寝足りない。
昨晩は引き上げた後、深夜営業のガソリンスタンドでタイヤの泥を落としたり、穴の開いたジャケットの修繕を依頼したり、BMWミニに乗った美人の運び屋について情報屋に調査を依頼したりと中々忙しく、帰って寝付いたのは午前三時過ぎであった。
「あ、お早う。起こしちゃった、かな」
白のカッターシャツに茶と赤のチェック柄のスカートを穿いた少女が、両手で踏み台を抱えて振り返った。ポニーテールに結わえられた黒髪がふわりと揺れる。
少女は運命の悪戯で四月から俺と同居することになった。
名を野島 湖乃波という。俺は湖乃波君と呼んでいる。
湖乃波君は冷蔵庫の前に踏み台を置いて上に乗った。
背伸びして冷蔵庫の上に置いてある乾物の入った容器に手を伸ばす。
残念ながら彼女の身長は一五〇センチ程度と、今の中学三年生の平均より小柄である。
それに長い睫毛にアーモンド形の黒目がちの瞳、すらりとした鼻梁、薄いピンク色の唇が左右対称に、うりざね型を年齢相応に少し丸みを帯びさせた顔の上に並んでいる。そんな整い過ぎる容姿は何処か高級な人形のように見えなくもない。
だが今の彼女は、中々届かない指先を必死にのばす見ていて飽きない動きをする子供以外の何者でもない。
やっと届いて、嬉しそうに乾物入れの中から麩を取り出して踏み台から降りる。そして湖乃波君は、またスリッパの音を響かせながら、ガスコンロの前まで移動して鍋の中に麩を放り込む。
「……」
飼育箱の中を行き来するハムスターが、ふと俺の脳裏に浮かんで吹き出しそうになったが何とか堪える。うーん小動物系か。
そう言えば最近彼女の友人となったフランス人と日本人のハーフの先輩が、隙あらば後ろから抱きついて来ると湖乃波君がぼやいていた。きっと彼女も湖乃波君が小さい愛玩動物に見えて仕方がないんだろう。
「はい、出来上がり」
湖乃波君は火を止めると碗に味噌汁を注いでテーブルに並べる。
ポニーテールの少女が学生服の上にエプロンをして朝食を用意してくれる。この世の中には、そんな日常に憧れる輩もいるらしいが、俺は二十五から三十五歳までの大人の女性が男のロマン的なエプロン姿をしてくれる方がよっぽど嬉しい。
続けて海苔を巻いた卵焼きとほうれん草の御浸し、金平牛蒡、子持ちシシャモ、白いご飯がテーブルに並べられる。今日の朝食は古き良き日本の朝食コースだ。
ほうれん草の御浸しと金平牛蒡は常備菜として、湖乃波君が休日に纏めて作っており、朝食や晩御飯の添え物として活躍している。その他にも五目ひじき、牛肉のしぐれ煮、赤唐辛子のオリーブオイル漬け等こまごまと作っており我が家の食卓を豊かにしていた。
「いただきます」
湖乃波君が俺の正面に座り両手を合わせる。俺も両手を合わせてから食事を始めるとしよう。
まず海苔を巻いた卵焼きを箸で二つに割って、片方を口に運ぶ。我が家の卵焼きは砂糖も入れず純粋に出汁と醤油だけで味付けをする。醤油も控えめで焼いた卵の甘さが解るようにしているし、食べた時の食感が良いように少し薄く卵焼き器に生地を引いて、ある程度固まると手早く丸めている。
うん、美味い。
続けて味噌汁を味わっていると視線を感じた。誰の視線かは解っている。
俺と向い合せに座った湖乃波君が、俺がそれぞれの料理の一口目を味わっている時、彼女は俺の表情を観察しているのだ。
俺の表情の変化で料理の出来が解るのだろうか? いつか喉に手を当てて白目を剥いて仰け反ったらどうか、ふと試したくなるのだが、そうした時、後々の騒動を考えるとやらない方が良いだろうという結論になるのだ。
少なくとも食事抜きの説教が始まるのは間違いない。
俺も湖乃波君も食事時は食べることに専念していて、食事中の会話はそれほど多くない。二人共、元々口数が少ないからかもしれない。
それでも一緒に暮らしていると少しづつ会話の量は増えてきている。
内容は料理の出来や使われている食材がどんなに安かったのかの報告、センター街の地下商店街や元町商店街での買い物中の出来事等。彼女なりの言葉を選んだ小さい声の区切った口調で話されているが、ぶっきらぼうでなく優しい口調なので聴いていても不快ではなかった。
食後のお茶を飲み終えて俺は流し台に置かれた洗い桶に水を張り、食器用洗剤を入れてから食器をそっと浸けておく。
湖乃波君が来て暫くは水を流しながら食器を洗っていたのだが、彼女から節約出来るところは節約するべしとのお達しが出た為、この様な方法となった。
食事の後片付けは湖乃波君が料理を作れば俺が後片付けをして、俺が料理を作れば湖乃波君が後片付けをする。二人で料理した場合は、大抵俺が後片付けをするようにしている。湖乃波君にはレシピや料理のコツを、彼女手製の料理ノートに書き込む仕事があるのでそれに専念してもらう。
一年間という契約期間で彼女に教えられる事は、俺にはそれほど多くなく彼女のためになるものなどもっと少ない。多少、料理については自信があるので教えることが出来ているが、それもいつ追いつかれるか。
後片付けを終えると、丁度湖乃波君が部屋から出てくる。六月なので上着が薄い茶色のブレザーから、クリーム色のチョッキに変わっている。午前七時、彼女の通学時間だ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアノブに手を掛けて外に出る直前、彼女は何かに気が付いたように動きを止め振り返った。
「今日、地下商店街で、ゴーヤーが三本、百五十円」
「ゴーヤーが? もうそんな季節か」
「うん」
俺の言葉に湖乃波君はこくりと頷く。
ゴーヤーとは苦瓜の事で鹿児島、奄美大島、沖縄で栽培される蔓科の植物だ。外観はキュウリや糸瓜に似ており表面はごつごつしている。
六月から七月頃になるとスーパーや商店街の店頭に、安値でこの野菜が並び始めるので、俺にとっては鱧、鮎、賀茂ナスと共に夏の訪れを知らせてくれる食材のひとつである。
「今日、買って来るから、週末にゴーヤーチャンブルーの作り方を教えて欲しいの。いいかな?」
「週末か」
確か運びの仕事は入っていなかったはずだ。
湖乃波君が学校の帰りに買い物できる分量は、小柄な彼女が片手持ちで負担のかからない重さとなるので、それを補う為、日曜日の特売に行けるように、余程のことが無い限り空ける様にしている。
「了解、他の必要な食材は週末に買いに行くか」
湖乃波君は目を細め笑みを浮かべると再び「行ってきます」と俺に声を掛けて、外にやや速足で出て行った。
夏の朝の陽ざし日差しの中、彼女の背中が小さくなるのを見送ってから俺は海へ向き直った。
今日も暑くなりそうだ。今日は一日予定が空いているので、久し振りに飲みに行くのもいいだろう。財布の中身はっと。
俺は黒革の小銭入れを開けた。
この小銭入れはキーリングが三個ついており中々使い勝手が良い。
207SWの予備キー、倉庫の鍵と返しそびれたある女性の家の鍵が付けられている。まだ捨てる踏ん切りがついていないのが我ながら女々しい。
あと小銭と札を入れる小銭入れのチャックがついている。小銭入れの中は札を入れるポケットが有り、一万円札が一枚と五千円札が一枚、今月の俺の経済力がまだ余裕があることを物語っていた。
「行くか」
そうと決まれば倉庫の扉に不在の紙を張り付けて、夕方までひと寝入りしよう。
今日は飛び入りの仕事も却下だ。湖乃波君が帰って来ても解るように簡単なメモ書きは置いておこう。




