三章 青い空と緑の大地の祝福を(1)
三章 青い空と緑の大地の祝福を
1
次の日、待ち合わせ時間より三十分も早い十時三十分に学校の駐車場に着いた俺と湖乃波君は、207SWから下りてあたりをぐるりと見回したが、理事母娘の姿は見当たらなかった。
何となくあの母娘は時間ぎりぎりか、五分ほど遅れてやってきそうな気がするのだが。
「ちょっと、早かったの、かな」
湖乃波君が小首を傾げる。
今日の彼女は白のブラウスにゆったりとした水色のショートパンツを組み合わせた出で立ちで、パンツと合わせて水色のパーカーを羽織っている。スカートでないのは牧場という環境を考慮したのかもしれない。
ちなみに俺は何時ものとおり黒背広にカッターシャツというスーツ姿だ。
それより湖乃波君の手に下げたバスケットケースの中には、彼女の昨日からの努力が隠されており、そのせいだろうか学校の先輩を待つ湖乃波君の表情は少しばかり緊張して強張っているようにも見えなくも無い。
「お」
蜂の羽音のようにも聞こえるエンジン音を響かせて、昨日見たばかりの丸みを帯びた黄色の小型車が姿を現した。
理事である富樫久美とその娘であるカテリーナの乗るルノー・トゥインゴだ。後部座席には特別ゲストの受付嬢が助手席を抱える様に座っている。
「はい、到着ーっ」
運転席の富樫理事がブレーキ音を響かせて急停止した。娘と後輩が前のめりになるのもお構いなしだ。
「おはよう、待った?」
富樫理事は小振りの丸いレンズのサングラスを外して俺に笑みを向ける。ショートカットの美女がラフなハイネックシャツとスリムジーンズを着こなしていると、その上半身の豊かさと下半身の優美なラインが見て取れてとても良いものである。
「いや、それほどでも。どうしたんですか?」
俺の問い掛けは、トゥインゴから這い出る様に出てきた受付嬢こと美文さんの惨状を目にしたからだ。
アーモンド形の瞳にはうっすらと涙が滲み、彼女の知的で温かい雰囲気に合ったチタンフレームの眼鏡は半分、鼻梁からずり落ちている。セミロングの亜麻色の髪も僅かだが乱れていることから、何かただ事ではない事態に遭遇したのであろうか。
「先輩、御願いですからサイドミラーとバックミラーは注意して見るようにして下さい」
力なく懇願する被害者を声に、俺は、あんたは何をしたんだ、と、富樫理事に憮然とした視線を向ける。
「え、ちゃんと注意して見てるわよ。これならぎりぎり間に合いそうなタイミングで車線変更してるから。ウインカーも曲がる前に出してるでしょう」
きっと車線変更しながら出しているんだろうな。
「野島さん、おはよっ」
理事の娘であるカテリーナは長いブロンドの髪をサイドテールに纏め、黒のへそが見えるショート丈Tシャツの上にオレンジ色と黒のチェック模様の入ったショート丈トップスを羽織り、黒のデニムショートパンツを組み合わせている。
両手のオレンジ色の指なし手袋とすらりとした両足を覆う同色のニーソックスが彼女の活動的な性格を物語っているように思えた。
しかし、この娘は母親に負けず劣らずスタイルがいいぞ。
ショート丈のTシャツとトップスを豊かな双丘が押し上げているが腰は若いからか細く、ショートパンツからニーソックスまでの間を覗く太腿は、若く健康的な瑞々しい肌色を保っている。
かといって鼻の下を伸ばす気にもなれないが。
この娘が俺の守備範囲に入るのは十年後で俺は五十代に突入している。その頃になるとひょっとしたら美人が気にならない境地に達しているかもしれないだろう。
まあ、気になっても、相手はそんなじーさん手前の男など見向きもしないに決まっている。
「おはよう、ございます」
おずおずと頭を下げる湖乃波君に微笑みかけると、カテリーナは緑色の瞳を細めて宙を見上げた。
「今日は晴れて良かったね。せっかく牧場に遊びに来たのに雨に降られたら面白くないからね」
「は、はい」
「学校の先輩とか変に気を使わなくて良いから。今日は一緒に遊ぼうね」
「は、はい」
湖乃波君は顔を赤くして俯いてしまった。全く、この子は本当に人見知りが激しいな。
カテリーナは気にした風も無く湖乃波君の手を取ると俺と母親の前まで歩いて来る。
「早く牧場に行きたいんだけど……みっちゃん大丈夫?」
「だいじょーぶ」
俺には美文さんの目がまだ回っているように見えるんだが、本当に大丈夫か?
「それじゃ、ちゃちゃと行ってのんびりしましょうか」
そう言って、当然のように207SWの運転席に乗り込む富樫理事。
「ええっ!」
「え?」
前者は驚いたカテリーナと美文君の声であり、後者は予想もしない反応を娘と後輩にされた富樫理事の声である。
いや、それほど酷いのかな、この人の運転は?
「だって、五人だからこの車じゃないと狭いでしょ」
はっはっはっ、気づいてないよ、この人。頼むから壊さないでくれよ。明日からどうやって稼げばいいのか途方に暮れるのは御免だよ。
救いを求める様にカテリーナと美文君の視線が俺に向けられる。
別に俺が運転してもいいのだが、俺には富樫理事が207SWの運転席に乗り込んだ瞬間、ある計画が浮かんだのだ。
「富樫さん、牧場まで207SWを貸してもいいですけど、その代り俺にもトゥインゴを貸してくれませんか」
「丸ちゃんを?」
富樫理事は俺を怪訝な目で見直した。
その呼び名を聞くと某インスタントラーメンのマークが頭に浮かぶので出来れば別の名前に変えて欲しい。
富樫理事の反応も当然だろう。彼女の眼には黒スーツにサングラス姿の男と、黄色いはっきり言って女性受けしそうなフレンチカーの組み合わせがアンマッチ過ぎるように思っているに違いない。
「初代トゥインゴには乗った事は無いんだ。フレンチカーユーザーとしてはこの機会を逃す手は無くてね」
本当はもう一つ理由があるのだが、この理由の方が周りは納得し易いだろう。
理事殿はうんうんと二度頷いて「オッケー」とウインクしてくれた。
彼女は彼女で207SWを運転したいのがありありと手に取るように解るので、渡りに船と言ったところだろう。
……カテリーナ君と美文さんには後で謝っておこう。
湖乃波君も心細そうな表情で俺を見ているが、彼女は富樫理事の運転が怖いのではなく、学校関係者で何度か顔を合わせているが、まだそれ程親しくない人達の中に一人で置いて行かれるのが心細いのであろう。
が、俺はそれに気が付かない振りをして富樫理事からトゥインゴのイグニッションキーを受け取った。ちなみに207SWのイグニッションキーは付けっ放しだ。




