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運び屋の季節  作者: 飛鳥 瑛滋
第二話 1年目 春 五月
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二章 女傑理事と金髪の小悪魔(8)

 再度捏ねた後、八等分して丸くしてから中心に指を通して穴を開ける。この後三十分間の二次発酵。

「湖乃波君、深底の鍋に湯を張って沸かしといてくれるかな。一旦沸騰したら弱火にしといてくれ」

 その間にオーブンの予熱を二百℃に設定。温めておく。

「すごいね、パン作りって」

「そうか?」

「どんな料理でもそうだけど、手を加える度に、少しずつ材料が変わっていって別の形になるよね。それってすごい事だよね」

 湖乃波君は膨らみ始めたパン生地を指先でつついた。

「まあ、料理も人もいろいろなものと係わって、」

 ベガガガガと三十分に設定したタイマーのベルが鳴り響き、俺の言葉が掻き消された。第二次発酵終了の合図だ。

 このくそタイマー。人がたまに良い事を言ってるのを邪魔しやがって。

「予熱も二百℃になってるよ。どうしたの?」

「いや、何でもない。一度沸かして六十から八十℃ぐらいまで冷ましたお湯に蜂蜜を入れると、その後に入れるベーグルの表面に艶が出て美味しく見える」

 俺は手早く大匙四杯のアカシア蜂蜜を湯を張った鍋に放り込んだ後、テーブルの上で発酵してドーナツの様に丸く膨らんだベーグルを四個だけ、静かに湯に浮かべた。

 更にベーグルが丸々と膨らんでくる。

「片面を一分間湯に浮かべた後、引っくり返してもう一分間湯につける事。あまり浮かべる時間が長いと発酵し過ぎて形が崩れてくるから注意するように」

 俺はベーグルの表面に痕を付けないように注意しながら、菜箸でつついて引っくり返した。

 よし発酵もちょうどいいくらいだ。

「合計二分間お湯に付けたら、鍋から引き揚げて細かい目のざるの上に置いて水切りをする。しかし、水切り時間を長く置いたら、せっかく膨らんだベーグルがしぼんでしまうので手早く済ますこと。クッキングペーパーに引っ付かないように並べるのも重要かな」

 湖乃波君に水切りの終わったベーグルをオーブンレンジの天板の上に並べてもらう。

「うーん、オーブンレンジが小さくて四個ずつしか焼けないのが難点だよな」

「でも、小さくても買ってよかったよ。作り置きした料理を温めたり、豆腐の水切りにも使えるし、大助かり、だよ」


 そうなのである。今使用している調理道具のほとんどが、湖乃波君が少ない予算を何とかやりくりして買い揃えたものなのだ。

 湖乃波君を引き取るまでは近くのコンビニで一本百二十円のジンジャーエールと適当なサンドイッチで食事を済ませており、時々此処にやってくる依頼人にはちょっと高めの八十グラム千二百円のお茶を出していた。ポットとカップ、カセットコンロがあれば十分生活が出来たのである。

 それが和歌山県での騒動の次の日、学校から帰って来た湖乃波君は夕食を作りたいので、料理を教えて欲しいと遠慮がちに御願いしてきた。

 どうやら旅館で作った料理が印象に残ったようで、俺を料理の上手い人と認識したらしい。

 で、近くのコンビニで材料を買おうとしたら、コンビニでの材料が高い事に湖乃波君は憤慨し、それより僅かに離れたトー〇ーストアで食材とフライパン、鍋、土鍋、フライ返し、お玉、菜箸、ボール二個と、バットを購入した。

 ただし包丁は俺の刃物コレクションの内、関市の銘入りがあったのでそれを使うことにする。

 そして俺が指導して湖乃波君の作ったのが旅館の定番メニュー御飯だ。

 土鍋で炊いた白米。

 ほうれん草の御浸し。

 卵焼き。

 豆と人参と揚げの入ったヒジキ。

 麩となめこの味噌汁。

 アジの味醂干しをそのまま焼いたもの。

 湖乃波君は自分が手伝った料理が美味しいかどうか自信が無いようで、恐る恐る御飯、そして味噌汁に口を付けた。

 その後の彼女の表情は今でも鮮明に思い出せる。驚いたように目を見開いて「美味しい」と不思議そうに呟いて今度は卵焼きを箸で割って口に運んだ。

「うん、美味しい」

 今度は味わう様に目を閉じて微笑んだ。

 その後は別の料理に箸を付けては満面の笑みを浮かべるので、俺はそれがとても微笑ましくて、ついにやにやと笑みを浮かべてしまった。

 我に返った湖乃波君が顔を赤くして、「だって美味しかったんですから」と言ったのには本当に自分の食事が続行不可能になりそうなくらい面白かった。

 以後、俺と湖乃波君は日曜には新しい料理を作り、また月曜には、夕食をアレンジしたお弁当を作って彼女に持たせている。


 オーブンレンジの扉を開けて、ベーグルを乗せた天板を素早く差し込んで、直ぐ温度が下がらないように扉を閉める。これで二十分後の出来上がりを待つだけだ。

 その間、残りのベーグルは発酵し過ぎないよう冷蔵庫に入れておく。

 発酵し過ぎると焼き上がり後にベーグルの中身の気泡が大きくなり過ぎてしまい、ぎゅっと締まったモチモチ感が損なわれて単なる柔らかいパンに成り果ててしまう。それではベーグルと呼べない。

 待っている間にざく切りしたトマトを、フライパンで加熱しながらさらに潰していく。

 それにバジルソースとチーズ、塩を加えて水分を飛ばしながら炒め続ける。途中で湖乃波君にバトンタッチ。

 さて、富樫母娘はトマトソースに刻んだベーコンを入れる派か、それとも別に焼いてパンに挟む派か、どちらだろう。ベーコンを刻んで入れるのなら、それに代わる食材を加えなければならないが。

「湖乃波君、冷蔵庫にミニアスパラはまだあったかな?」

「うん、前にパスタに使った分の残りがあるよ。サラダに使う?」

「オリーブオイルで軽く炒めてサンドイッチに挟もう」

 よし、ベーコンは刻んでトマトソースに入れることに決定。

 チーンとオーブンレンジがベーグルの出来上がりを知らせてくれた。さて、一旦料理の手を止めて試食兼夕食といこうではないか。

 湖乃波君がオーブンから天板を取り出しながらベーグルの焼け具合を確認する。

「あ、綺麗(きれい)

 彼女はキャラメル色に焼きあがったベーグルを感動したように眺めている。

 君はベーグルに恋をしているんではないかね。

 そして恐る恐る人差し指を伸ばしてベーグルの表面をつついて弾力を確かめる。

「熱っ」

 湖乃波君は短く叫んで、びくっと人差し指をベーグルから放して口に咥えた。出来立てには気を付けよう。

「面白い?」

 ばつが悪そうに俺を見て、俺の浮かべた表情に俺が何を考えているのか察した湖乃波君は、口をへの字に曲げて俺を睨み付ける。

「いや、その、何だ」

「面白かったって、口の端が笑ってるよ」

「うん、そうなんだ、ゴメン」

 ぷいっと拗ねたように顔を背けると、いそいそとミトンに手を通してベーグルを2個、皿に並べる。

「遅くなったけど、ご飯に、しよ」

 作り置きのしておいたオニオンスープを温めてモーニングカップに注ぐ。

 後はちぎったレタスに豆腐とオリーブオイル、練りごまを混ぜて作った胡麻ドレッシングをかけて夕食の準備が終わった。

「いただきます」

「はい、おあがりなさい」

 手を合わせた俺に湖乃波君が答えて食事が始まる。

 湖乃波君はベーグルを両手に取ると、その小さな口でちぎって数回噛み締めた。食感と味を目を閉じて確認した後にコクコクと頷く。

「すごい、外の皮はパリッとして歯応えがあって、とても美味しい。それなのに中身はモチモチしてて弾力があってほんのり甘さもあるよね」

「甘さはリンゴジュースを入れてちょうどいい感じに仕上げているからな。砂糖を入れてないから甘さ控えめで、ハルユタカの小麦の甘さも楽しめるぞ」

 俺の説明に湖乃波君は目を輝かせて聞き入っている。どうやらベーグルはお気に召したようだ。

 湖乃波君は続けてトマトソースをディップの様にベーグルに付けると、ぱくりと口の中に放り込む。目を閉じて笑みを浮かべたのは美味しい証拠だ。

「如何やらお気に召して何よりだ。じゃあ、残りの四個も焼いていこうか」

「うん」

 冷蔵庫からベーグルを取り出して湯に浮かべる湖乃波君の背中を見ながら、俺は明日、彼女の努力が報われることを願った。

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