二章 女傑理事と金髪の小悪魔(3)
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数分後、俺は警備員の控室で、両手両足をパイプ椅子に縛り付けられた恰好で座っていた。
この殺風景な左右にロッカーが並び、奥にひとつ安物の事務机が置かれただけの部屋には、俺以外に怖い顔をした警備員の方々が居たりする。
俺は、後ろ手に組み合わされた両手首を締め付けるビニールタイと、両足首をを椅子に縛り付けるビニールロープの固さに顔を顰めつつ、取り敢えず基本的人権について彼等と語り合おうと口を開いた。
「済まないが、もう少し締め付けを緩くしてもいいんじゃないかな。男を縛り付けても別に楽しくも何ともないだろう。今、俺を解放してくれたら、人生を豊かにする大人の為の縛り方を伝授してもいいんだぞ」
「……」
俺の声が聞こえないのか、警備員達は俺を無視するかのように警備日誌を書き込んだり雑誌を開いて寛いでいたりする。
そもそも学校の警備員が一般市民を拘束する権利は無い筈なんだが。
「おーい、むっつり押し黙っていると、むっつり助平と勘違いされてしまうぞ。それとも本当に助平なのかい?」
返答無し。やれやれ人の言葉が通じないのかな。
「ゴーホゴッホ、ゴッホゴホ」
「やかましい!」
椅子を前後に揺すり乍らゴリラの吠える真似をした俺の態度に、さすがに堪忍袋の緒が切れたのか警備員の一人が大音声を上げる。
ハンカチを後頭部に当てているのでよく見れば、階段でフライングクロスチョップを食らった運の悪い警備員だった。
「先程から黙ってりゃいい気になりやがって、もう少ししたら責任者が来るからじっとしてろ」
「はーい」
今直ぐ酷い目に合うワケでもなさそうなので黙っておくことにした。
心配なのは湖乃波君や川田教諭が、俺が迷子になったと勘違いして校舎を探し回っていなければよいのだが。
特に拙いのはこの場に湖乃波君が引き取りに来ることだ。
あの子のことだから文句を口には出さず、むーと抗議の視線で非難してくるにくるに違いない。そうなるとただでさえ無口なのに、本当に一週間ばかり口を利いてくれないかもしれない。
それは拙い。本当に拙い。
湖乃波君を引き取って新たに知った事は、顔の綺麗な子が静かに怒ると、とっても怖いということだ。冷え冷えとした絶対零度の視線なんて自分が虫けらになった様な気がするぞ。
決めた、俺はここから出よう。
責任者と会って釈明しようかとも考えたが、そんな暇は無い。この部屋を脱出して、何食わぬ顔で207SWの運転席に座っていよう。湖乃波君が戻ってきたら、何だかんだと言い訳をしてとっとと帰ろう。
二度とこの学校の敷居は跨げなくなるが。
俺は縛り付けられた椅子から脱出しようと、後ろ手に縛りあげられた両手首を捻って後ろ腰の薄いベルトポーチへ指を伸ばした。
「何で、私が覗き魔に会わなくちゃいけないのよ。教員とか理事長に任せればいいでしょう」
「その、理事長は留守でして。此処は警察沙汰にしても良いものか、理事の一人である貴女にお伺いをたてるべきだと教頭が言われたもので」
「ちっ、あの猩々、いつか罷免してやろうかしら」
ドアを一枚隔てた向こうからの会話に俺は動きを止めた。どうやら責任者とその上役らしき女性が此処に来たようだ。しかし、この声は聞き覚えがあるぞ。
二度のノック音の後、間髪入れずドアが開かれる。
同じ制服を着た小太りのアゴヒゲ男と、それより先に臆することも無く警備員室に足を踏み出すベージュのスーツを着こなした三〇代前半、ひょっとしたら後半かも知れないショートカットの女性が姿を現す。
意志の強そうな切れ長の細い目と、肉が薄いが引きしまった唇から気の強そうな性分の女性だと伺えた。
実際、まだ得体の知れない俺の前にパンプスの踵の音を響かせて近寄ってくるのは、この女性は豪傑の部類に入るんではと俺に確信を抱かせた。
というか、やっぱり俺はこの人に一度会っているよ。
「で、この人が、その危険人物」
女性は腕を組んで俺を身を見下ろすと警備責任者に問い掛けた。
「は、はい、警備員が二人、この男にやられています。ただ、この男はこの学校の生徒の保護者らしく、どうするべきかを判断していただけないかと」
二人? 俺は一人にしか直接危害を加えていないが。どうやら階段の罠に上手く引っ掛かってくれたようだ。
「それで、貴方はどうしてほしいの。このままだと貴方のお子さんも転校する羽目になりそうよ」
「それは面倒なことになりそうだ。せっかく貴女の様な女性と知り合えたのにもうお別れとは」
「……」
「……」
女性は俺の軽口に腕を組んだまま唇をへの字に曲げて俺を睨み付けていたが、ふと何かに気付いたように眉を寄せると、素早く俺の背広の胸ポケットからレイヴァンのサングラスを抜き取り俺の眼前にかざした。
彼女が目を見開く。
「貴方と何処かで会った様な気がするんだけど、気のせいかしら」
「俺はよく見知らぬ女性にそう声を掛けられるんです。回りくどい誘い方をしなくとも貴女とならいつだって……」
女性は無言で俺の額にサングラスをぐりぐりとねじ込み始めたので、俺は慌てて俺も初めて会った気がしないことを白状した。
「痛い、実は俺も、イタタ、初めて会った気がしないんですけど、すみません穴が開きそうです。何処か思い出せません、御免なさい、御免なさい、レイヴァンが曲がりそうです」
彼女は俺の額にサングラスをねじ込む手を止めると、満足そうに頷いた。
「そうよねえ、もう少しで思い出しそうなんだけど」
「健忘症になるほど目尻の皴は目立ってませんよ」
俺は額を両手でこすりながら毒づく。これ以上ここに居たら余計なケガが増えそうだ。
「ショック療法で思い出させてあげようかしら」
にこやかに笑みを浮かべて拳を振り上げる理事の女性とは裏腹に、警備員達は驚愕の表情を浮かべて俺を見ていた。
諸君、ボディチェックを怠ったら駄目だよ。
腰の後ろのベルトポーチに、手首のビニールタイと足首のビニールロープを切断したガーバーの折り畳みナイフを戻して、俺はひとつ背伸びする。
「ここはひとつ、どこかの喫茶店で寛ぎながら思い出すというのはいい案に思えるんですが」
俺の提案に女性も「そうねえ」と額に人差し指を当てて考え込む。
「貴方のおごりならOK」
「決まりだな」
何かそれ以外に大切な事を忘れているような気がするのだが、取り敢えずこの女性と何時、何処で知り合ったのか思い出す方が先決だ。




