終章 吉乃SIDE(2)
「貴女のピアノは何から始まっているの?」
私が問い掛けると、女の子は自分を背中から抱きしめるように支えてくれている母親の顔を真下から見上げた。
慈愛に満ちて見下ろす母親の視線と誇らしげに見上げる少女の視線が交わると、少女はたどたどしいながらも私も耳にしたことのある、ある有名な曲の歌詞と口ずさみ始める。
そして母親もそれに合わせるように口を開いて囁きかけるように歌う。
そして私も少女に微笑みかけてからその曲を口ずさんだ。
それは命を与えられた木製の操り人形である少年の物語で流された劇中歌であり、クリスマスソングとしても愛されている曲だった。
「ママがね、おもちゃのピアノでよく一緒に弾いてくれたの。ママはね、先生よりピアノが上手なんだよ」
「そう。私も聞きたかったな」
歌い終わると少女は目を輝かせながら母親にもたれかかる。
そんな少女へ困ったような笑みを向ける母親。
少女の記憶の中では、自慢出来る母親は世界一のピアニストなんだろう。
「ママ、わたし、ママのピアノが聴きたいな」
「え、今、ここで?」
母親は戸惑ったように職員によってカバーの掛けられたピアノへ視線を向ける。
「駄目よ。もう片付けられているわ。また、今度来た時に、ね」
「えーっ。お姉ちゃんにも聴かせてよ」
「困ったこと言わないの。ほら、おじさんも困ってる」
きっと、母親は実際に演奏して、少女の記憶の中にあるピアノの上手な母親という幻想を壊してしまうのを恐れているのだろう。
少女から向けられる無邪気な笑顔を曇らせたくない。
だって母親なんだから。
「……あの、私も手伝いますから演奏してみませんか」
「え、あの」
私の申し出に母親は驚いて身を強張らせた。
「大丈夫ですよ。ただ……」
私は困ったようにこちらへ視線を向ける駅の職員へ目をやった。
彼は腰に取り付けた無線機を手に取ると耳に当てて誰かと話し始めた。
話すにつれて当初険しかった彼の表情から険が取れて笑顔になり、無線機の向こう側にいる人物に向かって二、三度頭を下げる。
「ふう」
無線機を腰に戻して一息吐いてから、駅の職員は私達に向き直った。
その表情は晴れ晴れと笑顔を浮かべている。
「上司の助役から伝言、何時も聴かせて貰っています。夜も遅いので一曲だけなら弾いても構いません。だ、そうです」
「有難う御座います」
「おじさん、ありがとー」
私と少女が感謝の言葉を伝えると、職員は照れたように顔を背けていそいそとピアノのカバーを外し始めた。
「さあ、急ぎましょう。時間が勿体無いですから」
私は少女の視線に合わせてしゃがみ込むと、彼女の両頬を包み込む様に両掌を当てて語り掛ける。
「お姉ちゃんがピアノを弾く前に約束して欲しいの。今、ピアノを弾くことが辛くて楽しくなくても、ピアノが好きだった貴女とピアノを聴かせてあげたかった人への気持ちを忘れないで」
「……うん、私はママに聴いて欲しいの」
「じゃあ、あとちょっとだけ頑張ろう。貴女の大好きな曲を大好きな人に聴かせてあげられると嬉しいよ」
「……ホント?」
「うん、お姉ちゃんがそうだから間違いないよ」
私は少女に微笑み掛けてから立ち上がり、彼女のお母さんの背後に歩み寄って背中を押した。
「じゃあ、一緒に演奏しましょうか」
ピアノの前に用意された椅子にお母さんを座らせてから、私は彼女の両掌に自分の両掌を重ねて鍵盤の上に導く。
「力を抜いて。私が指を軽く押さえますからその通りに弾いて下さい」
「は、はい」
駅構内でピアノを弾くことになった事が恥ずかしいのか、母親は頬を赤らめて私の指示に頷いた。
私が母親の手首を押して鍵盤の上を左右に移動させて指を軽く押さえると、彼女は素直に指先に力を込めてを押す。
原曲よりもスローテンポにアレンジしても違和感が無いのがこの曲の好い所だ。
むしろ母親から子供に語り掛ける様な、そんなゆっくりとした曲調が幸いしたのか少女は頬親の隣でピアノが奏でる響きに聴き入っていた。
今日はクリスマス。
雲の無い夜空に、星は瞬いて私達を見守っている。
今日の偶然は、この曲の題名の様に少女の願いが夜空を上り、星々がクリスマスプレゼントとして魔法を掛けたのかも知れない。
最後の一音の余韻が消えると共に私達の背後から駅員や通行人の拍手が、そして少女からは母親の首筋に温かい抱擁が与えられた。
感極まったのか抱き付いたままぐすぐすと泣き出す少女の背中を優しく叩くと、母親は私へ満ち足りた表情で私を見上げる。
「私も、ピアノを習おうと思うんです。この子と一緒に頑張っていきたい」
「……きっと、喜びますね」
私は胸中を満たす満足感を微笑に乗せる。
願わくば少女がピアノの演奏で、自分の想いを母親に聴かせることが出来る日が訪れる事を、優しい母娘に音楽が幸せを与え続けてくれますように。
私は駆けつけてくれたこの駅の助役さんと駅員さんに礼をしてから急いで駅を後にする。
良い演奏を聴かせてくれたと礼を述べた助役さんに、良い演奏をしたのはあの母娘ですと感想を述べると、助役さんと駅員さんは揃って笑みを浮かべてくれた。
午後一〇時を過ぎた夜空を見上げる。
聖夜の星々が鮮やかで、私は暫くその神秘を眺め続けた。
「――有難う御座いました」
きっと今晩はこの星々によって、幾百、幾千、幾万の奇跡がこの街に降り注いだ。
そんな気がしたから、夜空に感謝の言葉を伝えたくなった。
今晩の演奏で私は再確認したのだ。
私は音楽が、ピアノが好きだということを。
そして、少女が母親にその演奏を母親に聴かせたいと思ったように、私もあの後輩に私の最後の演奏を聴いてほしいのだ。
あの艶やかな黒天鵞絨の髪をした彼女に私の演奏を心に刻んでほしい。
卒業まであと三ヶ月。
それまでに私は今、作曲している作品を完成させなくてはならない。
「……出来るよね」
私はこの夜空に願った。
私が彼女を想い綴ったこの曲を、彼女の前で演奏出来る事を。
高校卒業後も音楽と共に歩んで行ける事を。
そして――、
「あの後輩にも、今夜、星々の奇跡が降っていますように。メリークリスマス」