終章 吉乃SIDE(1)
終章 吉乃SIDE
ふう……」
私はピアノの演奏を終えると息をついて顔を上げた。
椅子の傍らに置いたバッグからペットボトルのミネラルウオーターを出して口につける。
それと同時に背後から幾つのも拍手が鳴り響いたので、私は椅子から腰を上げて振り返ると一礼した。
拍手の主は通りかかった通勤客や旅行者、一息ついている職員達だ。
私は顔を上げると駅構内の時刻表示板へ目を移す。
角ばった数字は二十一時五分を示しており、このピアノが使用出来る時間を五分過ぎていた。
「あ、いけない」
私は譜面台のノートをバッグに放り込んでピアノの鍵盤蓋を閉じると、柔らかい清掃用の布でピアノを傷付けないように注意しながらホコリを拭き取る。
「そこまでして頂かなくてもいいですよ」
「いいえ、練習に使わせて貰ってますから、これくらいのことはさせて下さい」
アルファベットで会社名の表示された腕章をつけた若い職員が、折り畳まれたピアノに被せるカバーを小脇に抱えて声を掛けてくれた。私の掃除が終わるのを待ってくれるようだ。
「でも、四時頃からずっと引きっぱなしで疲れたでしょう。お客様のリクエストも尽きる事がありませんでしたから」
「いいえ、作曲の時間も戴いていますし、私は色々と気兼ねなく演奏出来て良かったです」
私と若い職員でカバーを広げるとピアノ被せた。
ピアノさん、今日もご苦労様。
このピアノはJR新神戸駅に一定期間だけ設置されており、誰でも気兼ねなく演奏しても良いとされている。
私は学校を終えた後に、習い事が無い日に限って此処に立ち寄って使用限度時間ぎりぎりまで作曲や演奏の練習に使わせて貰っているのだ。
今日は学校の終業日ということもあり早い時間からピアノの前に座っていたのだけど、私の演奏を目にした御婆さんがお孫さんのであろう女の子にせがまれて演奏のリクエストをお願いしてきた。
快く引き受けると、それを皮切りに次から次へと新幹線待ちの人達から演奏のリクエストがあり今に至る。
ディズニーの曲を演奏する事が多かったのは、今日がクリスマスだからかもしれない。
「ねえねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんはピアノの先生なの?」
演奏を聴いてくれた人達の中から幼稚園児くらいの年齢の、赤い毛糸の帽子と同色のカーディガンに身を包んだ少女が私に近寄って来ると、私にとってちょっとだけショックな質問を投げかけてきた。
私、まだ高校生だけど。
よく大人びていると言われるけど、私はそんなに齢を取っているように見えるのかな?
「違うよ、私はまだ高校生なの。貴女と同じ子供なんだよ」
「ええ、でもわたしのピアノのセンセエより、すっごくじょうずだよ」
「こ、こらっ、そんなこと言わないの」
目を丸くして驚きの声を上げる子供とそれをたしなめる母親らしき女性の姿が微笑ましくて、私は少女の前にしゃがみこんだ。
「ありがとう。貴女もピアノを弾けるのね。将来はピアノの先生になりたいの?」
少女は大きな丸い目を何かを思い出すかのように上へ向けてから、口をへの字に結んで両掌をにぎにぎと開閉する。
「ううん、センセエはいっつも怒ってばかりでつまんないの。わたし、ピアノはきらいだよ」
「……」
これは悪いことを聞いちゃったかも。
私の傍でピアノのカバーをかけ終えた職員も気まずそうに押し黙る。
「お姉ちゃんはどうしてじょうずなのかな」
「えっと……」
女の子の背後で沈鬱な表情を浮かべていた母親が、わが子を励ますように両肩に掌を置いた。
女の子からピアノを習いたいと言い出したのか、それとも母親が子供に勧めたのか。
女の子と母親のピアノに対する感想は「こんなはずじゃなかった」、そう思っているのかもしれない。
「……そうよね」
私は、私がピアノに興味を持った理由を素直に話すことにした。
それで、ピアノを弾くことに抵抗を感じ始めている少女に、ピアノが好きだった頃を思い出す手助けになれば良いのだけど。
「お姉ちゃんが貴女くらい小さい頃、パパの隣で一緒にテレビを見ていたの。でも少し遅い時間だったから半分眠っていたのかな」
その夜は医者である父が珍しく早く帰って来ており、私はそれが嬉しくて父にしがみ付くようにしてテレビ画面に見入っていた。
「そしたら昔の白黒って解るかな? 軍服を着た小柄な体格の割に大きな声で話す人の映像が流れて私はびっくりして跳び起きたんだ」
その番組は二〇世紀に起こった出来事を残された映像を元に解説する番組だった。
私が目を覚ましたのは第二次世界大戦前のドイツの映像で、その映っていた人物は映像というものを演説等で効果的に利用した人物らしい。
私はもう少し大きくなってからその人物の名と【独裁者】という名称を知る事となる。
だが私が目を覚ましたのはその人物の演説とその映像に圧倒された、それだけではない。
その映像の背後に流れるピアノの旋律が映像の力を強めて、まだ幼かった私の胸に飛び込んで来たからだ。
「スゴイってお姉ちゃんは思った。映像に何十倍もの力を与えたこの曲に惹き付けられたの」
その後もその番組で其の曲は流れ続ける。
流れる映像に合わせてアレンジされたその曲は、その世界の出来事を私の胸に刻みつけた。
そして私にピアノという楽器に対する興味を植え付けたのだ。
父に頼み込んでピアノ教室の通い始めた頃、その流れていた曲の題名と、映像で演説していた人物の言葉に因縁がある事を知った。
その映像の人物が自分の部下に対して下した質問が題名となっている。
数年後、中学生となった私は、私がピアノを弾くことを快く思わなくなった父に黙って、その曲を作曲した人物のコンサートへ足を運んだ。
そしてその作曲家の自ら弾くピアノの演奏に、私は圧倒されて一緒に演奏を聴きに付き添ってくれたピアノ教室の先生の手を強く掴んでしまった。
静かだけど力強い相反するイメージを持った曲であることを、その生演奏で強く感じ取れ、それがその曲のテーマだったと後に知ることになる。
それが私のピアノとの付き合いの原点だ。